《説教要旨》『善悪を知っても』 大澤 宣 牧師
創世記2章4b~9、15~25節
箴言1の7に「主を畏れることは知恵の初め、無知な者は知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。さまざまな知識を得るようになっても、主を畏れること、神様への畏れを忘れたところでは、それは本当の知恵にはなり得ないのだということを考えさせられます。善悪を知っても、それを実際に行ってゆくことは別のことであると思います。
創世記に記された天地創造の出来事から語られるのは、人間が好き勝手にしてよいということではありません。神様がすべてのものをつくられて人に預けられたということであり、それだからこそ地上のすべてのものを大切にしなければならないということです。人がこの世界の主人であるかのように考えることは思い上がりではないかと思います。造り主である神様への畏れの心を忘れてはならないのではないかと思います。
神様につくられた最初の人間、アダムとエバは、神様が食べてはならないと言われた善悪の知識の木から、その実を取って食べることになります。それは、神様が世界をつくられ、人間をつくられた、人間はつくられたものであるという関係を、人間が踏み越えていこうとした、神様なしでやっていけると考えたということではないかと思います。
そして、善悪を知った人間が良いことを行うようになったかというと、アダムとエバの子どもたち、カインとアベルの間に起こったのは、兄弟殺しという出来事でした。善悪を知っても、それが罪を犯さないということではないのだということを考えさせられます。ふさわしい助け手としてつくられた人間同士が、力を合わせて神様に背いていく、互いに傷つけ、命を奪い合っていく、そのありさまが描かれています。
ローマの信徒への手紙3章23節以下に、このように語られています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」。イエス・キリストの十字架によって、赦しを与えてくださり、いやしを与えてくださる、この恵みのために、神様ご自身が深い痛みを味わっておられることを心に留めたいと思います。なお命を与えられ、生かされているものとして、そして、永遠の命を約束されたものとして、命を喜び、感謝していくものでありたいと思います。