《説教要旨》『永遠の命』     大澤 宣 牧師

 コリントの信徒への手紙二 4章7~18節

  阪田寛夫さんの『土の器』という小説の中で、もろい土の器である人間が、その外から見える姿が崩れていくとき、その内面にある、見えないものに気づかされるということが書かれています。

  聖書の言葉は、私たちが土の器であることを語ります。欠けの多い、もろく、はかない土の器です。しかし、その中に神様は宝を入れてくださるのです。死ぬはずのこの身であり、目に見える外なる姿は衰えていくとしても、私たちそれぞれの内に神様が与えてくださっているもの、内なる人は日々新たにされていく、その見えないものは永遠に続くと語るのです。

  聖徒の日を迎え、教会の先達、また、私たちそれぞれが心に覚えます先達を記念し、召天者記念礼拝を行っています。東神戸教会72年の歴史の中で、多くの方々が教会の働き、主の御業に連なってこられました。その方々の中から天に召されていかれた方々がおられます。また、私たちそれぞれが、今、命の恵みをいただいて歩んでおりますが、その命は神様から与えられたものでありますと共に、それぞれの先達となられる方から受け継いでまいりましたものです。人の目に長く見える生涯を歩まれた方、また、人の目には短く見える生涯を歩まれた方、それぞれ、神様からかけがえのない恵みを与えられた方々です。その外なる姿は土の器のごとく去って行かれました。そして、聖書の言葉に導かれ、土の器に収められた宝、それぞれの内なる人は、神様によって、日々新たな命とされて、見えない命は神様によって永遠に続くことに思いを馳せるものです。

  詩人、茨木のり子さんの『鎮魂歌』という詩に「他人に襲いかかる死神を力まかせにぐいぐい のけぞらせ つきとばす 昼も夜もない精悍な獅子」という言葉があります。この言葉に、ナザレのイエスの姿を思い起こしました。病む人々、悲しみ、うずくまる人々と共に生きられ、「貧しい人々は幸いである」と告げられたイエスです。そのイエスご自身が十字架の死を受けられたのです。このイエスの姿を思いながらパウロは語りました。「わたしたちは,四方から苦しめられても行き詰まらす、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」私たちも、日々新たにされていく歩みであることを信じてまいりたいと思います。