《説教要旨》『救いの約束』 大澤 宣 牧師
出エジプト記 13章17~22節
出エジプト記は、紀元前13世紀、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々が、神様に導かれてエジプトを脱出し、約束の土地を目指すというものです。聖書の信仰の中で、このエジプトからの脱出ということが、信仰の原点ともいうべき出来事とされています。
何ものかにとらわれ、かたくなになっている心を砕くために、神様は大きな犠牲を払われました。歴史の中で、かたくなな心から解き放たれていくために、大きな犠牲が払われたのでした。
エジプトから導き出されたイスラエルの人々が進んでいくのは荒れ野でした。それは厳しいところであり、誘惑の多いところでした。イスラエルの人々は、荒れ野の旅の中で、食べ物がなくなり、飲み水がなくなり、追っ手に追われる中で、不平を言い、エジプトを出てきたことを後悔するのでした。
この心細い旅を、神様は雲の柱、火の柱をもって導かれたのです。それはイスラエルの人々の道しるべとなったものですが、この道しるべはたいへん不思議なもので、旅をする人たちと一緒に進んでいって、絶えずどちらに行けば良いか示してくれるのです。
イエス・キリストは、わたしは道であるといわれました。わたしたちがイエス・キリストを信じて生きるということは、イエス・キリストを出発点として、一人で生きていくということではないのです。わたしたちが進むべき道として、絶えずわたしたちと一緒に進んでくださるイエス・キリストを見つめながら進むということです。そして、わたしたちの道となってくださったイエス・キリストは、ご自身が十字架の犠牲となられたのです。わたしたちはもはや犠牲を払うことはありません。犠牲のためのいけにえをささげることもありません。イエス・キリストご自身が、十字架の死を負われ、わたしたちのために命をささげられたからです。そこから、わたしたちは新しい命へと導かれています。
だれもが平和と豊かさを求めながらも、人と人とが傷つけ合い、いろいろな誘惑に心を奪われそうになる、この時代という荒れ野を生きるわたしたちに、真の救いが約束されていることを信じて進んでまいりたいと願います。