《説教要旨》『星を見て喜ぶ』 大澤 宣 牧師
マタイによる福音書 2章1~12節
サンタクロースの起源になっておりますのは、4世紀頃、貧しい家庭の子どもたちに贈り物をしていったセント・ニコラウスという司祭であることはよく知られています。ヨーロッパの伝統の中にあるサンタクロースはさまざまです。オーストリアでは、山羊の毛皮をまとった恐ろしい風貌のサンタクロースがやってきて、子どもたちにこの一年どう過ごしてきたかを問いただし、説教をして、プレゼントを置いていくそうです。自分たちの生き方を問い直されるような時を迎えるのです。それは、イエス・キリストを迎えて、悔い改めの時を過ごすということにもクリスマスの意味があるということではないかと思います。
東方の学者たちは、イエスに出会う前に、エルサレムのヘロデのところに行きました。そして、ヘロデから、その子が見つかったらしらせてくれ、わたしも行って拝もうと言われていました。それは、新しい王などとんでもない、決して受け容れられない、殺してやろうというヘロデの計略でした。学者たちは、ヘロデのところには帰るなという神様からの知らせを聞いて、別の道を通って帰って行きます。別の道を通って帰って行くというのは、これまでの生き方を見つめ直していく、新しい生き方へと導かれることを表しているように思えます。
ヘブライ人への手紙11章に「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです」と書かれています。学者たちは、星を見て確信し、幼子イエスを見て、全世界の救いという、見えない事実を確認したのです。
オーストリアの精神科医フランクルは、ナチスの強制収容所にあって、一瞬夕映えの空を仰ぎ見、愛読していたゲーテの詩を思い起こしました。その時、心だけは収容所の鉄条網のかなたに越えていくことができたのです。極限の状態にあって魂のはばたきを経験することができたのです。それができなかったら、生き残ることはできなかっただろうと語ります。
それぞれの歩みの中で、悲しみ、しんどさ、限界を感じながら生きているかもしれません。そういう私を包む永遠の御手があることを信じたいと思います。まだ見ぬものを望み見ていく信仰の歩み。それがなかったならば私たちは生きることができないのではないかと思います。
私たちは、救い主イエス・キリストがおられるという神様の現実を知らされています。このことを受け止め、私たちの歩みを神様におささげする思いで、新しい道、新しい年の歩みへ希望をもって進んでまいりたいと願います。