《説教要旨》『主は新しいことを告げられる』 大澤 宣 牧師
イザヤ書 42章1~9節
「明日には目が見えなくなるかもしれないと思って、世界を見てください。」
新聞にヘレン・ケラーの言葉が載っていました。多くの人々に、見失いがちな本当に価値のあるものを見極める心を持ってほしいと語られたのです。
イザヤ書は語ります。神様がこの世界を造られ、すべての人に命を与えられました。神様は、すべての人に救いを約束され、すべての人に光を与えてくださいます。
私たちは、この世のもろもろの力にとらわれ、闇の中にとらわれているものであるかもしれません。そのことを見ることができない、気づけないものであるかもしれません。その私たちの目を開いてくださる、心を開いてくださるという、救いの約束を示してくださるのです。
金在源(きむ・ぢぇうぉん)さんという方は、能登半島地震の被災地で炊き出しの活動に参加されました。その活動団体に関わるスタッフの方が、パレスチナで爆撃のために命を失われたということでした。能登半島の被災地と戦火の中にあるパレスチナの人々がつながっている。直に見ることができないことですけれども、そのつながりに気づかされるのです。
イザヤ書42章は、主の僕と呼ばれる、神様のみ心を行う僕の姿を語ります。主の僕は、政治的、軍事的な指導者の中に見出されるのではありません。その預言がナザレのイエスにおいて実現されると新約聖書は受け止めます。
イエスの姿こそ、ガリラヤの、この世の隅に追いやられたような人々の中で、その人たちと一緒に傷つき、痛み、この世にあっては消えそうになりながら、なお消えることなく共に歩んでいかれた姿です。傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことのないもの。これこそ、人々と共に痛み、苦しみ、そして、共に喜び、希望を語られたイエスの姿なのです。その生き方を、十字架の死にいたるまで貫かれたイエスは、今、私たちに、私たちが共に生きること、大切なことへと招いておられるのです。それは、言葉多く語ることではなく、大きな力を振るうことでもありません。むしろ、叫ばず、呼ばわらず、しかし、声なき声となって、心を共にしていくことへと導き、暗くなっていく灯心を消すことのないようにと導かれるのです。
歴史の中にあるそれぞれの命へと心を寄せる思い。今、この時代に、その存在を脅かされている命へと心を寄せる思い。私たちの身近な隣人と、遠く離れた人たちと、たとえ言葉にならなくても、大きな声でなくても、共に生きる思い。その思いを大切にしたいと願います。