《説教要旨》『新しい契約の預言』 大澤 宣 牧師
エレミヤ書 31章27~34節
2月18日、灰の水曜日から受難節が始まりました。灰をかぶるということは、旧約聖書の中でも悔い改めのしるしとされています。エゼキエル書27:30で、高ぶった思いになっていたティルスの町が、頭に塵をかぶり,灰の中で転げ回るということが書かれています。エレミヤ書6:26でも、高慢になって,神様ではないものを拝み、弱くされている人をかえりみなくなったエルサレムの都は、粗布をまとい,灰を身にかぶれと言われています。
受難節はイースター前日の4月4日までの40日間です。これは、受難節の間の6回の日曜日を除くからです。受難節の中にあっても,日曜日はイエス・キリストの復活を記念する日なので、受難節には含めないということになっているからです。受難節中の主の日は、主のご受難をおぼえつつ、私たちが復活の喜び、新しい歩みに招かれていることを覚えたいと思います。
エレミヤが活動した時代は,紀元前7世紀後半から6世紀前半と考えられます。ユダヤの国は南北に分裂し、北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダはバビロニアに攻められて風前の灯火でした。その時、エレミヤはかつての栄光に固執するのではなく,神様の怒りを謙虚に受け止め,神様の赦しと救いを与えられて新しい道に進むようにと語りました。
神様から遠く離れて、空しいものの後を追っているのは,この私たちの世界の姿であるといことを考えさせられます。私たちは、絶えず、この世界のありさま、自分自身のあり方を見つめ、問い直していくものでなければならないと思わされます。古いものに固執するのではなく,新しさに一歩踏み出すこと、そのことが、決して古くなることのないイエス・キリストに従って進むことなのだと思います。
明治時代の牧師、大儀見元一郎は、幕府の家臣として、過去にこだわろうとした人でしたが、不思議な出会いの中で,新しくされていくことに導かれたのです。弱さを持つ私たちにもかかわらず、イエス・キリストの十字架によって新しくされることを受け容れたいと思います。