東神戸教会
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メッセージ

20150823 『 愛に生かされ 愛に生きる 』 ヨハネによる福音書 15:1〜17

 おはようございます。今日はこのような機会をいただき、ありがとうございます。今日私が着ている服ですが、インドに行った時に向こうの女性の普段着のスタイルで作ったものです。というわけで、今日はキリスト教とヨーガの世界観その根底に通じるものの話をしようと思うのですが、準備してきたものの、この壮大なテーマをまとめお伝えするには私は力不足だとも感じています。少々散らかった話になるかもしれませんが、お付き合いいただけると幸いです。
 自己紹介がてら、自分の経験を追うように話を進めていきたいと思います。私は父方も母方も禅宗という家に生まれ、今のところイギリスに住む伯母の家族を除いて、私だけがクリスチャンという状況です。私とキリスト教との出会いは、同志社中学に入学したことに始まります。なぜ同志社を受験したかと言いますと、地元の公立中学の校則の特に身だしなみにまつわる決まりの無意味さにやってられないと思い、制服のない学校に行かせて欲しいと両親にお願いしました。念願叶って進学した同志社は、果たして自由な学校でした。中学では聖歌隊に入り、まずキリスト教音楽に出会い、そこに心の落ち着きを見出したように思います。そして高校3年の時、忘れられないH先生のキリスト教学の授業と出会います。Hさんはシンガーソングライター&ティーチャーという何とも自由な肩書を持ち、聖書科講師と塾講師と音楽活動を続けておられるのですが、彼の心に残る授業の内今日は1つのトピックをご紹介したいと思います。

 「愛されたいタンクと愛したい蛇口」図1にありますように、一人の人は愛に関して、1つの蛇口つきのタンクに例えられます。皆それぞれ大切にされていくばくかの愛の水をタンクに持っていて、自分の意思で蛇口を開いて他の人のために行動し愛の水を注いでいる。これが重なりあっているのが人間関係の世界です。なんとなくイメージつきますでしょうか?今日読んでいただいた聖書の個所にもありますが、「互いに愛し合いなさい」というのがキリストの中心的な教えです。ここでは愛は水です。人は自分のタンクが満たされているとき、すなわち自分の心が満ち足りているときは、比較的容易に蛇口を開いて他の人に愛を注ぐこと、すなわち他者のために働くことができると思います。では、2つ目のタンクのように自分のタンクが枯渇してしまったときはどうでしょう?自分がピンチに立たされどうしようもなくて、のどから手が出る程助けて欲しいと思っているとき、自ら進んで蛇口を開き他の人に与えるなんていうことができるでしょうか?

 私は大学卒業後、最初に児童養護施設で保育士として勤めることになりました。児童養護施設はご存知の方も多いかとは思いますが、虐待を受けた子どもたちが保護され、一時親元を離れて生活を送る場所、現在ではほぼそんな状況になっています。親からの愛情に乏しかった子ども、もしくは不適切な形で愛情を受け取ってきた子どもたちですから、愛情飢餓状態にあり、屈折した形で求めてくる、いや迫ってくると言った方が相応しい時さえあります。青く甘くて、自分の問題も乗り越えられていなかった私は、ただただ翻弄されるばかりの日々でした。何か指針のようなものが欲しかった私は、家の近くの教会を通りがかった際、そこの主任牧師が私が同志社中学在学中の校長だったN先生であることを知り、教会の門を叩きます。そこで伝道師をされていたT先生とのつながりや導きもあって、キリストの愛に生きる生き方をお手本とするという気持ちから、洗礼を受ける決心をしました。その後職場では、先輩方がたまたま一斉に結婚や妊娠や出産で職場を離れ、スタッフが一時一気に若返るという時期が訪れました。子どもたちは不安から様々な行動に出て、私はそれに適切に応えることもできず、段々と施設は荒れいわゆる施設崩壊のような状況にまで至りました。自分がすり減って何もできず、正常な思考さえままならないとき、高校時代の恩師H先生と話をさせてもらうことができました。愛されたいタンクと愛したい蛇口のトピックを共有した後に、先生は「自分のタンクがほぼ空っぽっていうとき、どうしたらどうなるって話だったか覚えてる?」と問われました。恥ずかしながらその時私は覚えていなかったのですが、皆様答えは想像つきますでしょうか?例え自分が空っぽだと感じていたとしても、思い切って蛇口をひねって開け、他者を愛するという行動を選びなさい、そうすれば思いがけず神様の愛が降り注ぎ、あなたを愛で満たしてくれる、それがクリスチャンの生き方だというのが結論だったんだよ、と教えてくれました。そうですよね。今日読んでいただいた聖書のブドウの木の例えにもあるように、イエスの愛の生き方という木につながっていれば、枝である私たちにも神様の愛という水や養分が与えられ、愛の働きは実を結ぶことができる。ということでもう結論が出てしまったのですが、もう少しお付き合いいただけますでしょうか。でもその時の私には、キリストの生き方は素晴らしいと思えても、神様の存在というものが理解できませんでした。それをおぼろげながらも実感できるようになったのは、ごく最近のことです。

 結局私は自分が持たずバーンアウトするようにこれからのあても何もないまま、最初の職場を辞めました。しばらく考え自分のやってきたことに意味付けしたかった私は、臨床心理学を学びたいと考え、縁あって大学院に進学することができました。ユング心理学を中心に、そこでの学びは本当に興味深いものでした。そろそろ就職を考え始める頃、不思議なことにまた児童施設からお誘いをいただきました。前のことがあった私は、その就職試験を受けるか迷ったのですが、ふとcallingという言葉が心をよぎり仕事というのは呼ばれて初めて成り立つものだと思い、覚悟を決めました。それから4年児童心理療育施設で心理士として働かせていただきました。前より少し自分の視野も広がりクリアになって、そこでの経験もとても貴重なものだったのですが、今回は省かせていただきます。

 そして職を辞し、主人の中国赴任についていくことになります。忙しくまたやりがいを感じて働いてきた私にとって、自分が半分位取り去られてしまったかのような体験でした。その中で何かに打ち込みたい気持ちから、以前からセルフメンテナンスのために練習していた、ヨーガの学びを深めていくことになります。ヨーガの哲学的側面に触れ感動を覚え共感を深めるにつれ、自分がクリスチャンであることとのギャップが意識にのぼるようになります。そこでまた、その疑問を晴らしてくれる師と上海で出会うことになるのですが、その前にまず図2にあるヨーガの世界観を少しご紹介したいと思います。

 ヨーガというと、ストレッチ的な体操のことを思い浮かべる方、またはオウム真理教のことを思い出される方もあるかと思いますが、どちらも一面的または偏った理解になります。本来ヨーガとはもっと全体的で普遍的な、人の生き方に関する教えです。人は移ろいゆく物事にとらわれて、他者と自分を比べ自分は取るに足らないものだと嘆いたりしがちですが、ヨーガの聖典は移ろいゆくものは真実ではないと説きます。ヨーガでは私は体と心と意識から成ると説明しますが、私の外面である職業や役割のみならず、産まれ成長し病気になりやがて死を迎える肉体や、様々な出来事によって揺れ動く心・思考でさえも、変化するので本来の自分ではありません。その背後に控えただ全てを見ている、何もしないがゆえ何者にも侵されないクリアな意識(魂)こそがその人の本質です。そしてその個人の意識(魂)は全体としての宇宙の意識(神様という捉え方をしても差し支えないかと思います)とつながっています。私の中の神聖な部分が神様とつながっているという感じでしょうか。個人意識と宇宙意識は、ひとつの波と海全体のような関係性で、本質は水であり同じです。またひとつ波は海全体に含まれているのですから、ジタバタしなくても最初から満たされています。本当の自分を知らないという無知によっておこる悩みやとらわれを払い、本来の自分を再発見しつながり定着することが、ヨーガの目標でありゴールです。そのために体操や呼吸法や瞑想や聖典の勉強をするのです。なんだか頭がクラクラしてきそうな世界観ですが、なんとなくつかんでいただけましたでしょうか?

 何度も繰り返しヨーガの聖典の言葉を聴くうちに、少しずつ理解は進んできても、私にはクリスチャンであることとのギャップが残ります。そんなとき、師は教えてくれたのです、聖書にも同じことが書かれている「kingdam of heven at hand, kingdam of heven within you」と。ルカ福音書17章21節にある言葉ですが、イエスは神の国は実はあなたがたの間にある、と教えています。ヨーガの聖典と聖書、細部の解釈は異なると思いますが、ヨーガの波と海の例えと同じ世界観を共有してはいないでしょうか。波の間に神の国はある。ダライラマはすべての霊的な教えは、同じ山の頂へ別のルートから登るようなものだと言っていますが、それを身を持って実感した瞬間でした。(また、図3のユング心理学がいう集合的無意識というのも正にこのことだ!と思ったのですが、今回は省かせていただきます。)

 そんなギフトをもらって日本に帰ってきた私を、待っていたのは祖母二人の最期の時でした。共働きの私の両親が祖母二人共を看ている状況でしたから、施設に入っているとはいえ人手が足りず、私が手伝いに行きました。家族や親戚間の関係性の中で、少し離れた私が動いた方が角が立たないこともあります。そのように祖母の看取りの過程で家族の間で働くことを通して、私の今世でのお役目は愛のパイプになることなんじゃないかと思うようになりました。皆愛は持っていて人を愛そうともしている、でも時にそれはうまく回らない、そこにパイプを通すことが私の役目。これまでの仕事や学びにも通じるイメージでした。そうして昨年、相次いで祖母を見送りました。そして「今年こそはよい年になりますように」という母の言葉で明けた2015年。その正月明け、今度は父が体調不良で検査入院することになります。そこまではさもありなんという感じだったのですが、そこで突然告げ知らされた病名と余命に、本人はもちろん家族一同息をのみました。私は、家族という言葉が意味するものが半分位、損なわれてしまうかのような感覚を覚えました。それから手術までの日々、両親と弟家族と私達の夫婦の間に起きたことの中で、私が一番驚かされたのが、弟のお嫁さんの行動でした。彼女は携帯電話のラインで家族皆がメッセージを共有できるようグループを作って、甥っ子の写真を送ったりして父を励ますと共に、なんと手術前1週間は、住んでいる徳島から大阪に出てきて私の実家に泊まり込み、弟も不在の中母と嫁姑の生活を送り、毎日甥っ子をベビーカーに乗せ父の病院に見舞いに行ってくれました。思いもよらず「死」という言葉もちらつかされる中、幼い命の圧倒的なパワーが、どれだけ父のそして私達の救いとなったことでしょうか。私自身も自宅と仕事と病院と実家を行き来する生活の中、これだけ純粋に父を思えるということは、まぎれもなく私自身がそれだけ両親から愛されてきたからだと実感することができました。これまで私の中にあった家族にまつわるわだかまりも解けると共に、愛の循環する私達家族は大丈夫と思えた、最悪の事態の中に光を見出すこともできた日々でした。そんな中、私は受けていた授業の中で、先生にリードしてもらって自分の意識の奥底の方へ降りていくという瞑想をする機会がありました。瞑想の中で、まず私が見たのは愛の泉でした、更に降りていくとそこは金色に輝く神々の世界、そしてその先は真っ暗な宇宙の果てすべての原点でありすべてが収束するところ。そこで私の中ですべてがつながりました。愛されたいタンクと愛したい蛇口に流れる水も、波と海すべてのもとである水も、全ては愛というエネルギーなのだと実感しました。私の愛のタンクは神様そして宇宙と通じていて、泉のように水は湧き出てくるから無限で、だから私は心配しないで蛇口を開き、人を愛していけばよいのだと。

 そこまで実感できても、人は迷います。私は7月末で失業したのですが、次具体的に何をしていけばいいのかと迷っています。それほどに弱い者です。だからこそ祈りなすべき務めを神様に聞くということを忘れないでいたいと思います。今日は長く・個人的な話にお付き合いいただき、ありがとうございました。


 一言お祈りします。天の父なる神様、今日まで生かされ、メッセージを共有できる機会が与えられたこと、感謝します。どうか私たちを本来の自分に立ち返らせ、あなたから与えられている愛に気づかせて下さい。そして私たちを愛の器として用い、それぞれがそれぞれの役目を果たせるよう導き守って下さい。この小さな感謝と祈り、イエス様を通してお捧げします。アーメン。

 また新しい一週間、それぞれの持ち場へと出ていきます。私たち一人一人、健康が守られ、心の平安が与えられ、御心にかなう生活ができますよう、神様守り導いて下さい。この小さな祈り、礼拝の最後にあたりイエス様のお名前を通して御前に捧げます。アーメン。




図1愛されたいタンクと愛したい蛇口

図2ヨーガの世界観

図3ユング心理学

図4私の瞑想
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