東神戸教会
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      2017年度メッセージ    横山順一牧師


20170730 聖霊降臨節 第9主日

メッセージ 『何もささげようがない真実』  ローマの信徒への手紙 9:19~29

 小説「東京タワー おかんと僕と、時々、おとん」はリリー・フランキーの自伝。無償の愛をささげる母親の姿が描かれる。  久世光彦は「ひらがなで書かれた聖書」と評した。
 ローマの信徒への手紙は、言わばパウロの遺書。神様に不満を持ち、文句をつけたくなる信仰の危機に際して、断固反論がなされる。陶器が陶工にモノを言うがごとく、それは甚だしい的外れなのだ、と。実際、到底越えることなどできない愛と計画によって救われたパウロだった。
 粕谷甲一神父は、「徒労の盃」という文章を書いた。頑張ろうとは思うけれど、力が足りなくて何もできない日々の繰り返しの中で、もはや神様にささげるものは何もないというため息が出る。しかし神様は、その徒労の盃を十字架上に力尽きくずおれた主の前にささげよ、と答えて下さるのだ、と。
 事実、何ものをもささげようのない私たち。にも関らず、不平・不満をつぶやく私たち。そしてにも関らず私たちを愛し、徒労の盃を受け入れて下さる神様がいる。何もささげようがない真実だ。感謝!感謝!アーメン!

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20170723 聖霊降臨節 第8主日
メッセージ 『捨てるなら、思いっきり』  使徒言行録 19:11~20218
捨てたと思っていたのに「教育勅語」が再登場している。
 福岡で、病を抱えつつ死刑廃止運動に取り組んでいる後輩がいる。そのエネルギーはどこから来るのか。
 かつて原理対策委員会の代表をしていた時、あまりのしんどさに不平や不満が溜まった。そんな時、十字架を背負って歩まれるイエスの後姿を見て、自分との違いを思い知らされたものだった。イエスの前に古い生き方を捨てることで前進できる。
 エフェソでパウロの真似をする祈祷師たちが出現した。それは名誉やお金のための猿真似に過ぎなかったから、ただちに失敗を晒すこととなった。しかし彼らはそのお陰で、自分たちの過去と訣別する事を与えられたのだった。
 小澤征爾さんは、後輩たちで一番駄目なのは、小澤のただ真似をする者と語った。そこからは新しいものは生まれない。
 某教会50年誌に、寄稿されたお祝い文章より。 「上を見よ、下を見るなかれ。(詩編121:1)、前を見よ、後ろを見るなかれ(フィリピ書3:13~14)、外を見よ、内を見るなかれ(ローマ7:14)、そして人に手を貸すべし。」

 主の前に捨てるべきものがある。そして捨てるなら、思いっきり、だ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とイエスが言われた。

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20170716 聖霊降臨節 第7主日
メッセージ 『一歩下がって立てば。』  テモテへの手紙Ⅰ 218
 豪雨災害による犠牲者を痛ましく思う。一方で執行された死刑囚は?とも思う。命は本来どんな人も重い。
 戦争という文字通りの殺し合いの場でさえ、かつて休戦が実現したではないか。(映画・戦場のアリアより)
 テキストの著者は「すべての人々」「王たちや高官たち」のために祈りなさいと第一に勧めた。それは信仰者として生きる本道のためだった。何も権力者が守られるための祈りをささげることではない。神の思いを実現するためだった。当時の権力者を超える世界の実現への祈りがそこに隠されていた。
 ブルンナーは「聖霊はただ明るくするだけでなく、広くする」と書いた。かしこくされることでもあった。
 デューラーの「祈る手」は、自分を支えた人の絵である。一歩下がった歩みを知らされる。
 ある牧師は「イエスを知り、関わるとは、狭い意味のキリスト者になることではなく、本当の人間になること」と述べている。
 一歩下がって、歩みたい。へりくだるとは、人ではなく神を誇ることだからだ。広くされ、かしこくされ、信仰を通して本当の人間へ。本当の仲間を得るように。

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20170709 聖霊降臨節 第6主日 ☆部落解放祈りの日☆
メッセージ 『はいてはいけないクツ 』 使徒言行録 4:32~37

 前週、根源的課題について悩もう、突き抜けようと語った。それは「あなたは何者なのか」との、神からの問いかけに答えることだからだ。
 一方、イエス自身は語った、「思い悩むな」と。既に答えの出ている事について思い悩む事は、かえってつまづきともなる。
 初代教会の信徒たちの生活は凄かった。モノを売り払い、分かつ事もそうだが、そのような生き方が信仰から産み出された事が何より凄い。
 その源は、イエスの「招き」にあった。小澤征爾さんは、指揮者の大事な役目は「インバイト」すること、と語っている。楽団員を無理やり引っ張るのではない。一つの世界へ「招く」事だ、と。
 イエスこそは私たちを神の世界へ招かれた。それも何も持たないのに。それまでは持つものが主の祝福を受ける者とされていた。
 ピーターソンは「信仰は、神に対して純粋に目を向け、ただ神のみ心に応えようとするもの」という。
 言い訳や、屁理屈の多い私たち。でも、そんな私たちを神はなお「招いて」下さる。本当は分かっている。私たちの為すべき態度は、例えばノアのごとく黙って従うことだと。

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20170702 聖霊降臨節 第5主日
メッセージ 『スパイスを効かせるべし 』 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8:1~15

 大先輩からの「自分は何者かで悩んでいる」との発言にショックを与えられた。だが考えて見れば、人間は死ぬまで悩む存在であり、悩まない世界はきっと病んでいるのだ。
 いつの頃からか悩む事はマイナス、暗い事だとされて来た。そのような場では妙な利己主義がはびこる。
 コリントの教会がそうだった。クリスチャンはこうあるべき等の利己的主張をなす者らによって、かえって教会に亀裂が生じた。
 パウロは断固それを拒否した。なぜなら自身が神の広さによって救われたのだから。そしてエルサレムの教会を救おうと呼びかけた。姜尚中さん流に言えば、悩んだら外へ出ようということ。
 エルサレムの教会を助けることは、ただ彼らへの支援だけでなく、結局それをなす者の生き方が変えられることだった。
 「人間は意味を見出すために生まれてきた」(フランクル)。信仰によって、私たちは新たに悩む者とされる。その時与えられるスパイスは、他者であり隣人である。自分の思いを超えて用いられる時がある。

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20170625 聖霊降臨節 第4主日
メッセージ 『 大人の肩書は要らない 』 フィリピの信徒への手紙 2:12~18

 何かにつけて「命がけで」を連発する牧師がいる。正しい聖餐を訴える一グループの文章に「私たちも覚悟を持って神と契約し、命がけで神の国に住民登録する」とあった。大人の肩書を信仰に持ち込むかのごとくだ。尊大さを感じる。
 ペトロはイエスの預言に対し、強く否定した。それはイエスの言わば「命がけ」の宣言だった。他の弟子もペトロ同様の対応だった。だが、結果はイエスの預言どおり。
命をかけたのは、イエスだった。しかし彼は責めず、裁かず、かえって復活によって赦された。この順番と内容を忘れてはならない。
 パウロはそれを覚えればこそ、フィリピの信徒たちに、共に喜ぶよう訴えた。従順に、恐れおののきつつ自分の救いを達成するようにと。
 それは神の支配のもとに生かされていることを自覚し、その意思に従順であるようにとの意味。自由に解放される道程だ。
 ミッフィーの視線は素直だ。ほっとしなけりゃ福音じゃない、と或る牧師は言う。命がけの信仰とはホッとした者の秘めた深い決意なのだ、と。
 神は私たちの決意の強弱を問われない。信仰はかたくなさを打ち砕き、素直にされる恵み。それを味わいたい。

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20170618 聖霊降臨節 第3主日
メッセージ 『 何かを一つ覚えて、役に立てば良し 』 エフェソの信徒への手紙 5:1~5

 教団は牧会50年の記念に、牧師にお祝いを贈る。これに強い違和感を覚える。
米国の教会から神学部へ戻ってわずか1年半の働きで、後輩の西村篤牧師が脳内出血で召されて10年。今も彼を慕う元教え子がたくさんいる。長さではない。量でもない。
 浜田広介の童話「たぬきのちょうちん」。お爺さん狸が、自分が若い頃教えられた「何か一つをしっかり覚えて、役に立てればそれでいい」の生き方を孫狸に話して聞かせる。孫狸はそれをしっかりと受け取った。託すべきバトンを渡す。託されたバトンを受け取る、これぞ愛の伝授である。
 初の電話がつなげられ、皆で電話を待ったある牧師の思い出。伝えなければ、伝わらない、と。
 イエスの伝道の働きは3年余。遂に十字架で召されたが、残された者たちへ存分に愛の伝授がなされた。受けた者たちは、まずは聴く者へと変えられて行ったのだ。
 私たちもそうでありたい。

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20170611 ☆花の日・子どもの日・三位一体主日☆
メッセージ 『 一人の百歩より、百人の一歩 』 マルコによる福音書 12:29~31

 「おたえすけこびとのにちようび」(なかがわちひろ文・コヨセ ジュンジ絵、徳間書店)。こびとたちが、働く車の力も借りて、みんなで協力して困っている人を助けるシリーズ第6弾。
OHさん・TSさん夫妻が来月新婚旅行で行くフィンランド。ムーミンで有名だが、政治家の汚職率の低さや地方分権が世界で最も進んでいる国としても知られている。
中でも教育システム「フィンランドメソッド」。教育は個人の幸せを目指すため競争に基づくものではないとして「一人の百歩より、百人の一歩」を目指す。それでいて大学進学率は87%の世界2位を誇る。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である神を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさいく。」(マルコ12:30~31)、これはキリスト教の黄金律である。
難しい。どうすれば実行できるのか。そのヒントが先の絵本にあり、フィンランドメソッドにある。分かった人は皆に教えよう。分からない人は聞こう。そうやって教会に繋がろう。「一人の百歩より、百人の一歩」、これこそ教会が目指す道だ。

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20170604 ☆ペンテコステ☆
メッセージ 『 自分は、きっと想像以上だ 』 使徒言行録 2:1~11

 薬物依存症からの脱却を目指す施設「山梨ダルク」。現在闘病中の施設長について、代表のSさんは彼は「希望であり、社会の財産」。祈って欲しいと訴える。機関紙「甲斐福記」より。
 ペンテコステの前、復活40日めにイエスは昇天された。ルカは、弟子たちが「大喜びでエルサレムに戻り、神殿で神をほめたたえた」(ルカ24:52~53)とペンテコステまでの10日間を描く。
彼らは主の十字架前、不安と恐れから「誰が一番偉いか」の論争をした。自分第一だった。全員十字架刑の前に逃げた。罪悪感と喪失感は相当のものだったろう。
が、無条件に許され、復活の主と40日を過ごした。「聖霊により力を受ける。主の証人となる」(使徒1:8)とのイエスの最後の言葉を通して、自分第一の生き方を捨てた。
ペンテコステは教会の誕生。だがその内実は、一人ひとりの新たな誕生である。自分第一を捨て、神の喜ばれる生き方へ。それがイエスの証人となるということ。Sさんの言うように、過去ではなく現在がすべて。自分が第一と躍起になっていた時には分からなかった、「自分は、きっと想像以上の存在」との思いが与えられることだろう。

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20170528
メッセージ 『 原罪・過去・未来 』 ヨハネによる福音書 17:1~13

 「はじめてのおつかい」に登場した3人の幼子。途中ケンカも起こる。はっきり「嫌い」と言う。それでも助け合い、仲良しに戻る。子どもっていいなぁと思わされる。
「私たちは歴史を無視したような時代に生きている。現在のことだけにどっぷり浸かっている」と米神学者ピーターソン。
憲法改正を急ごうとする現政権は、過去(歴史)に学ばない代表だ。が、個人的にも現在だけで生きている自分を告白せざるを得ない。
ピーターソンは「でも、イエスに教えられている私たちは過去を理解し、イエスが約束されたものとして未来を予測できる」と続ける。
現在でしか生きられないのが人間の原罪と言えよう。イエスはそんな私たちに「自分の喜びが満ち溢れるよう」語りかける。本来、十字架の直前にあって、不安と恐れに包まれる一方で、喜びと希望を語り伝えた。そこに神の視点があったからだ。

その視点を与えられるのがペンテコステの出来事。聖霊の力を思い描きつつ、次週へ備えたい。

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20170521
メッセージ 『 明日 天気になあれ 』 マタイによる福音書 6:1~15

 或る牧師と「炊飯器のおばさん」との出会い。つながっているだけでは駄目で、スイッチを押さねば、と。それは救い主イエスが分かった喜びなのだ、と。
 本テキストは、炊飯器のスイッチを二度押しして気づかない状態が背景にあったことを描く。つながっていると思い込んで、切れている。
 イエスは彼らを「偽善者」と呼んだ。律法学者やファリサイ派の人々だ。彼らは、自分を誇り、他者に自慢するために、「施し」「祈り」「断食」を捧げた。
 かつていた教会のCSで、一小学生からきつい言葉を言われたことがある。偽善を見抜かれていたのだった。
偽善者たち個人の自己満足で終わるならまだいい。が、その行為が他者の信仰(生き方)をも損なっていたとしたら。腐臭の漂う行為だ。
 善行とは、他者に対する愛の行為であるはず。そのための関わりが抜け落ちては何にもならない。
 イエスは、主の祈りの中で、「明日へ」つながる希望を込められた。明日(未来)に向かう祈り。善行を行う前に、この一番大事な事への肯定と応答をなしたいと思う。

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20170514
メッセージ 『 できた!がいっぱい 』 ヨハネによる福音書 14:1~14

 つまづきも覚える季節。「新人は叱るのではなく、手本を示して教え、やり直させる」との言葉を重く聞く。
テキストは、イエスの十字架の告知を受けたあとの弟子たちの出来事。普段あまり登場しないフィリポやトマスを通して、ヨハネ福音書は人間の弱さを描いた。これからどうなるのか、具体的に道を示されたかった彼らへ。イエスは「私が道、真理、命」と答えられた。私を見よ、と
この福音書が書かれた一世紀末当時、増してゆくばかりの迫害に、キリスト者の信仰は命がけであり、次第に力を失いかけていた。ヨハネは、イエスの訣別説教を通して、信仰の根本を伝えようとした。
それは永遠の命に既に置かれているという恵みと平安についてだった。人間の考える命の関わりと全く違う関わりへの誘いでもあった。
根拠のない励ましではない。神から与えられるものの確かさの故に、心配ない、大丈夫と、イエスは伝え続けられた。できたがいっぱいの世界があった。「信じなさい」と繰り返されたこの方の言葉が、例え弱く頼りなくとも、次へと私たちを運ぶ。

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20170507
メッセージ 『 イエス。正すクリニック 』 ヨハネによる福音書 6:34~40

  「幸福を守るのはお金ではなく、目に見えないもの。最もおろそかにしてならないのは、心、祈り」と瀬戸内寂聴さんは言う。
 「断捨離」という言葉が定着したが、戦後の足し算の生き方から、引き算の生き方への転換が勧められる時代。本当に必要なものは何か?
 34節の彼らとは誰か。5000人の給食に与かり、イエスを王にしようとして探し求め追って来た群集だった。
 マンナの出来事を思い起こす。イスラエルの民たちの苦難をいつも助けたのは神。食物がなかった時、民たちの不平不満にも関わらず、毎日必要十分なパン(マンナ)を降らせて満たされた。
 「そのパンをいつもわたしたちに下さい」と群集は願った。が、内実は甚だ誤解に基づくものだった。
 その姿は足し算で生きて来た私たちの生き方に全く重なる。命がけでイエスという命のパンを作られたのは、神だ。余分をそぎ、どうしても必要なものは何かを探る時、見えてくるものがある。
 それ故にイエスは妥協しない。最も必要な言葉をもって人を正す。それがかえって癒しとなる。

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20170430
メッセージ 『 プレミアム エブリディ 』 マタイによる福音書 12:38~42

飲食の誘いに、「ふところが暖かい、寒い」と称して出欠を決める友人がいる。ふところに応じていつも潔い。
テキストには律法学者とファリサイ派の何人かが潔くない者として登場する。「しるしを見せよ」と。
先生と呼んでいるし、一見お願いのように思われるが、そうではない。目立つ言行をなしているイエスに、それが神の権威や力によるものかどうかを示せと詰め寄ったのだ。まさに相手のふところ具合を途中で確かめるようなもの。
これに対し、イエスはヨナと南の女王の例を用いてはっきりと答えられた。ヨナも女王も『悔い改め』、『求める』人の代表。律法学者たちもよく知っていたはずの人物。彼らこそがしるしだと。
主の復活の日、マグダラのマリアは背後から声をかけられるイエスに振り向いた。それは悔い改めることが、180度向きを変えることを表している。
命、人生はこの世的価値で決まるものでも変るものでもない。神が示されるものに聞いて行く〔その方を向いてゆく〕時、お金(しるし)などなくても、ふところ(心)は暖かい。そういうもので満たされたいと思う。金曜日だけでなく、毎日がそんな特別な日として定められている。

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20170423
メッセージ 『 負け越しの大一番 』 マタイによる福音書 28:11~15

 朝令暮改はあやふやな政治の常套句。が、個人にもその時はそう思うたんや、ということがある。
 負け越しが避けられない事態の折、どう負けるかが次の道を定める。主の十字架はまさにそれ。
 イエスの復活の出来事の目撃者には墓の監視をしていた番兵たちも含まれていた。だから彼らは、婦人たち以上に急いで戻って当局へ報告した。
 祭司長や長老たちにとって、それは忌まわしい報告。絶対に認められない出来事だったが故に、彼らは兵士たちに高額の金を払って捏造を図った。すなわち、イエスの遺体は弟子たちが盗んだのだと流布せよ、と。
 兵士たちは拒む事はできず、その通りにした。が、それが成功したかというと逆だった。彼らは真実に口を塞ぐことができなかった。
 神〔ゴッド〕とは、ゲルマン古語のグスから来る。グスとは語りかけられる存在との意味。神の語りかけがあって、兵士たちの行動を後押ししたに違いない。見られ、聞かれていたのは、実は自分たちだったのである。負け越しの大一番で神の後押しが効いた。
 そん時はそう思うたんや、が揺れる私たちの常套句。でも揺るがない主により頼んで、今もこれからもアーメンと応えるものでありたい。

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20170416
メッセージ 『 この世界の片隅が 』 マタイによる福音書 28:1~10

ドイツの作家ジェイムス・クリュス作「笑いを売った少年」。不幸な生い立ちに育ったティムは、しかし他者を惹きこむ笑いを持っていたお陰で、健やかに育つ。
が、父の死をきっかけに、悪魔の紳士と取引して、どんな賭けにも勝てる力と笑いを交換してしまった。お金持ちにはなれたが、どんな富も笑いとは引き換えにできないと悟ったティムは、紳士を探して笑いを取り戻す旅に出るのだった。
イエスの死後、弟子たちは大事なものを失って呆然自失の状態だった。そこへ墓に行った婦人たちから、天使と主の伝言が伝えられた。「ガリラヤで待つ」と。
弟子たちのガリラヤへの旅は、弟子とされた原点を思い起こし、自分を取り戻すための旅となったろう。
そして自分を取り戻した時の喜びは婦人たちが恐れつつ、「大いに喜んだ」のと同じであり、少年ティムが新たに取り戻した喜びと同じだったに違いない。
イエスの復活は、ただ主一人のものではなかった。婦人たちも、弟子たちも、そして皆がそこへ招かれたのだ。イエスが取り付いて私たちは新たにされた。この世界の片隅が一新される出来事だった。全身でそれを喜び合いたい。

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20170409
メッセージ 『 アンコールの幕が上がる 』 マタイによる福音書 27:32~56

 「オモカゲ」〔大西ユカリ〕の歌に思いを重ねつつ。かつて娘の病気に対して、何もできない無力さに悔しさを覚えた。マンガ「神様物語」(業田良家)に登場する神様は、何もできない。ただ人々に寄り添うだけである。
遂に十字架につけられたイエス。一緒に磔になった罪人が罵声を浴びせ、祭司長や律法学者たちまで尻馬に乗った。
彼らは「王」と言う言葉に飲み込まれていたのではないか。王なら何でもできて当然だと。
娘の病気の際、力があるなら何でもしてやりたいと願った。イエスにはもしかしたら、その力がなかったか、もしくは封印されていたのではないだろうか。
もしそうなら、イエスに与えられた事は、嫌でも十字架によって無残に死んでゆくことしかなかった。それを通して、人々に寄り添う事のみだったのではないか。
 悲惨に満ちたこの世である。哀れんで下さいと私たちはお願いする。しかし既にイエスは限りない憐れみを私たちにその身をもってかけられた。更には、「先に行くよ」と待っていて下さるのだ。先行する哀れみの幕が再度上がる。その地平に立たされている事を信じる。

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20170402
メッセージ 『 アタック、ナンバー案 』 マタイによる福音書 20:20~28

 広大な砂漠を見て、「道はどこ?」と尋ねる旅行者に、ガイドが一言、「私が道です」。この、小話は興味深い。
 小野経男という言語学者。長年名古屋大学で教え、更に名古屋学院等に勤めて退職した。書いた本や論文などは数え切れず、要職も歴任。若い頃願った通りの人生を歩んで、よくやったと言える振り返りの時、彼に与えられたのは「こんなもんか」との思いだった。自分は星の数ほどいる平凡な学者に過ぎなかった、と。それは夫人の死がきっかけだった。生と死の問題に関わって来ただろうか、反省した。著書「遠くて近い道」より。
 ヤコブとヨハネの母親がイエスを訪ね、息子らの地位や名誉を願い求めた。他の弟子たちは怒ったが、実のところ同じ願いを持っていたから。母親の願いは、無理もないものだった。
 小野先生も若い頃はそう願った。だが、どこかで飢えていた。そしてイエスの声を聞いたのだ。「私が道である」と。
 人は、ナンバーワンを目指し、自分が道を歩いて来た、と勘違いする。切り開いたのはイエスだった。私たちはその後に従う者。順位のこだわりから解放されたい。「偉くなりたい者は、皆に仕える者、僕になりなさい」とのイエスの答えは、遠くて近い道を示している。

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