東神戸教会
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メッセージ

20170625 『 大人の肩書は要らない 』 フィリピの信徒への手紙 2:12~18

 何か発言するたび、「命がけで」という言葉を用いる牧師がいます。自分は「命がけで伝道します」、「命がけで説教します」という具合です。いつだったか、「自分は命がけで講壇を守っています」と語り、だから間違った聖餐式は許されないと続けました。

 彼個人が自分の使命や自分のなす牧会について、そう信じている事を揶揄するものではありません。でも、自分一人頑張っていると言わんばかりで、ついて行けません。 そんな場所で自分がやっている事を「命がけ」と表現するのは、他の牧師の姿勢は命がけではない、或いは命がけとは思えないと暗に言っているようなもので、感心しません。何だか尊大な印象を受けました。

 聖餐式に関して、正しい聖餐を、と訴えている或るグループの機関紙に、こんな文章が載ったことがありました。例えば鬼ごっこや野球をして遊ぶ時、小さい子にはハンディをあげたりします。その事を「お豆」というそうです。で、いわゆるオープンの聖餐式は「お豆」のようなものだと言うのです。

 「ことが遊びならば、おふざけならば、お豆もいいかもしれない。思いやりに満ちた対応かもしれない。しかし、ことが契約を伴うものだったら、命の危険が懸かっているものだったら、どうだろう。ことが真剣な事柄ならば、そこでお豆を作ることは、差別以外の何者でもない。唐傘連判なるものがあった。誰が一揆の首謀者か判明しないように、唐傘状に署名捺印する。村はずれの地蔵堂で守られる類の秘密の儀式だ。たまたま地蔵堂の近くで遊んでいた子どもを誘い込み、血判を押させることなどあり得ない。私たちも、覚悟を持って神と契約し、命がけで神の国に住民登録する。たとえ行く先が神の国でも、何も自覚を持たない者を、だまして誘い込むことは出来ない」

 こうあります。いかにも責任感あふれるかのような文章ですが、要は聖餐式で、洗礼を受けていない人に配餐することは、たまたま地蔵堂の近くで遊んでいた子どもを誘い込み、血判を押させるに等しいことだと言っている訳です。私は、聖餐式の方式についてこれが良いとか悪いとかを言いたいのではありません。そうではなく、洗礼を受けて信徒になるということに「命をかける」と表現することの傲慢さを感じる、その事を指摘したいのです。地蔵堂の近くで遊んでいる子どもに、何ら大人の肩書は要らない。そうではなく聖餐式も、信仰も、地蔵堂の近くで遊んでいる子どもたちを招くことだと思います。

 命がけという表現を聞くとすぐに思い起こすのは、弟子の一人ペトロの事です。イエスが捕えられる直前、あなたは鶏が鳴く前に三度私を知らないと言うだろう、と預言されたイエスに対して、彼は強い言葉でそれを否定しました。マルコによる福音書14章によれば、ペトロは力を込めて言った、とあります。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたの事を知らないなどとは決して申しません」。言わばペトロは命がけで主に従います、と表明したのです。この時、皆の者も同じように言った、と記されていますから、決してペトロ一人だけがそう思い表明したのではなく、弟子たちすべてが同じように思い、そして表明したのでした。

 しかし結果はどうだったでしょうか。イエスの預言どおりでした。ペトロはもちろん、弟子たちすべてが主を見捨てて逃げ去ったのでした。命を掛けたのは、弟子たちではなく、イエスご自身だったのです。私は、この出来事をよくよく覚えねばならないと思っています。なぜならば、この弟子たちの姿は、私自身、また私たち自身の姿そのものであると思うからです。

 私たちの貧しさ、弱さ、愚かさ、小ささがあって、イエスの十字架の出来事に至りました。しかもなお、イエスは私たちを非難されもせず、裁かれもせず、かえって「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と取り成しの祈りを捧げられて召されたのです。更には復活の出来事を通して、私たちの罪を赦して下さいました。この順番、この内容を忘れてはなりません。私たちの覚悟や決心が先に問われたのではなく、一方的な神様の愛によって私たちは招かれたのです。

 かつてキリスト者を迫害し、あまつさえ殺人まで犯したであろうパウロは、この順番と内容をイエスとの出会いによって、深々と知らされることになりました。それだからこそ、今日のテキストの中で、信仰生活の基本を忘れて動揺していたフィリピの信徒たちに向かって、私と一緒に「喜びなさい」と呼びかけたのです。

 12節にこうあります。「だから、私の愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいたときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と。

 神に対して、恐れおののきつつ従順であるようにとは、旧約聖書においても繰り返し述べられている、よく知られたフレーズです。恐れおののきつつと聞くと、厳しい裁きをなす怖い神にひれ伏すというイメージを抱いてしまいがちです。でも、そうでは決してないのです。それは、神の支配のもとに生かされている事を自覚して、その意思に従順であるように、ということなのです。ビクビクしながら隠れて生きることではありません。むしろ神のもとにあって、真に神の思いを受け取るならば、人はそこでのびのびと、自由に解放されてゆくことになるのです。それは自分の努力で獲得するものではなくて、神が下さるものであり、私たちが何かするとするなら、それを達成するよう生きることだとパウロは語るのです。つまり、肩書がモノを言うこの世の価値観を必要としない世界なのです。

 幼子に今も絶大な人気を誇る絵本の一つに、ミッフィーの絵本があります。オランダの作家ディック・ブルーナの作品です。今年2月に亡くなられました。単純な絵とすっきりした色彩で有名ですが、それと共に正面性でもよく知られています。正面性とは、ここに登場するウサギたちの顔がいつも正面を向いていることを指します。何をしていても顔だけは、正面を向いて、つまり読者に常に向き合っているのです。どのページを見ても、そこから注がれるまっすぐな視線、これが幼子たちに大きな安心を与えると言われています。

 従順であるとは、黙って従うことではありません。見つめられている、包まれているということを感じ取るということだと思うのです。以前にも言いましたが、子どもたちを叱る時、不平があるとぷいっと横向きになります。でも大人も同じです。心が頑なな時は、前を向けないのです。自分が第一となっているからです。にも関わらずすべてを見つめ、受け入れている視線がある。フィリピの信徒たちもそうでした。ですからパウロは続けたのです。13節から。「あなた方のうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは、神であるからです。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。」

 藤尾正人という牧師がこんな事言っておられます。「私たちが何をしたかが大事ではありません。主が私たちのために何をされたか、今されているか、これからされるかが大事です。そしてほっとしなけりゃ福音じゃありません。」

 ほっとしなけりゃ福音じゃない、と語る藤尾牧師が、実はこうも言っておられます。「命かけなけきゃ信仰じゃない。」 戦前戦中の日本のキリスト者のいのちがけの信仰を紹介した上で、こう書かれているのです。そしてこう続けておられます。

「このキリスト者のいのちがけの信仰は、歯をくいしばった、悲愴な、殉教の決意ではなく、キリストを信じ、罪許され、ほっとし、永遠の命を与えられた者のみが知る、あの、のびやかな喜びに包まれた深い決意です。それはめったに口にしてはならない心の奥深くに秘めた思いなのです。」と。

 人にはそれぞれ違う環境があります。ですから中には相当の覚悟を持ち、悲愴な決意をなして洗礼を受ける人もいることでしょう。しかし神は、私たちの決意の深さを問われないのです。弟子たちの死んでも従うと述べた決意はあっけなく崩れ去りました。けれども主の許しを得て、達成されたのです。それはキリストを信じ、罪許され、ほっとし、永遠の命を与えられる時に、上よりいただく大きな恵みです。ミッフィーの真直ぐな視線を思い起こしながら思います。信仰は、私たちのかたくなな姿勢が打ち砕かれて、素直にされることを言うのだ、と。

従順でいて、恐れおののきつつ、打ち砕かれる豊かな恵みを味わいたいと思うのです。


 神様、私たちの固くなさを打ち砕いて下さい。何も肩書の要らないほっとする信仰へ導いて下さい。


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