東神戸教会
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メッセージ

20170514 『 できた!がいっぱい 』 ヨハネによる福音書 14:1~14

五月も半ばとなりました。新しい思いで入った学校や就職先で、新人一年生たちはどう過ごしているでしょうか。初めからうまくゆかなくて中には疲れている人もいることでしょう。うまくいってると思っていたら、落とし穴にはまり上司から怒られている人もいるかもしれません。先日、「新人は叱るのではなく、手本を示して教える。そして作業をやり直させる。」という新人教育の肝が書かれた文章を読みました。なるほどと思いました。手本を示されず、できないことを叱られてばかりでは、きっとやる気が失せるでしょう。時には諦めや絶望に追いやられることもあるでしょう。その体験さえも願わくは成長の糧となるよう祈らずにはおれません。

さて、今日与えられたテキストは、受難告知の後の、弟子たちの思いとイエスの思いが描かれた箇所でした。ヨハネによる福音書は、4つの福音書の中で一番後に記されたものです。もはや時代は一世紀末となろうとしておりました。イエスが亡くなっておよそ70年近くの年月が経っていました。

この間、イエスを信じる人は増え続け、ローマにおいても相当数のクリスチャンが生まれておりましたが、一方でクリスチャンに対する迫害は強まってゆくばかりでした。ユダヤ教ではイエスをメシアと告白する者は会堂から追放するという決定がなされ、この時代のキリスト者が信仰を貫こうとする事は、誇張でも何でもなく、まさに「命がけ」の事だったのです。

ですからヨハネ福音書は、困難な時代に生きる人々に、ただ単に「励まし」を与えるとか、「慰め」を与えるとかに留まらない、イエスに従う事の根本を改めて伝えるために、他の3つの福音書とはかなり違う書き方で、描かれました。つまり上手くゆかない、行きそうにない現状に対して諦めないよう、手本を示したのです。

20章ある全文のうち、終わりの18章から20章までがイエスの受難物語となっていますが、その前13章に洗足の出来事を記し、14章から17章までを長いイエスのお別れの説教、訣別の説教という形を取り入れました。つまり手本を示した上で、それぞれの歩みをやり直させるための別れの言葉を語った訳です。

それに続くのが今日のテキスト14章で、ここではトマスが一番に登場します。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問うたことが5節に書かれています。

そして次にはフィリポが登場して「主よ、私たちにおん父をお示し下さい。そうすれば満足できます」と言ったと8節にあります。

イエスの告知に対して、ヨハネ福音書は、例えばペトロとかヤコブとかしばしば登場する、よく知られた弟子たちではなく、かえってあまり知られていない弟子たちを登場させるのです。言わば新人の中でダメそうな人を敢えて扱った。フィリポはその一人ですが、トマスに至っては、復活の後でさえ、それが信じられず最後まで疑った人でした。多分、そこに特定の個人ではなく、きっと人間誰もが持っている弱さを描こうとしたのだと思います。

先ほども説明しましたが、ヨハネ福音書が書かれた時代のクリスチャンは、イエスの告知を通して、自分自身のこれからについて「告知」を受けたも同然の時代だったのです。このまま信仰を守り、キリスト者としての歩みを続けるならば、間違いなく迫害を受け、かなりの確率で死をも覚悟せねばならなかったからです。例え死なないとしても、逃げ惑い、或いは隠れてひっそり耐え忍ばねばならない、そういう近未来が待ち受けていた訳です。敵より、何もできない焦燥感が彼らを圧迫しました。

こうした時代、こうした人々を意識しながら、ヨハネ福音書は、イエスの告知を受けた弟子たちに、一体イエスが何を伝えようとしたかを懸命に書き記したのでした。

トマスとフィリポの問いに対するイエスの答えは、永遠の命が既に与えられているという事に尽きました。2節で「私の父の家には住むところがたくさんある」と語られたのです。これは葬儀の時によく用いる箇所ですが、本来、決して人が亡くなった後の世界の事だけを指しているのではありませんでした。イエスの告知を受けて、弟子たちは動揺しました。これからどう生きて良いか、具体的な方法が分からなかったのです。一世紀末のキリスト者も、いよいよ増して行くばかりの迫害を目前にして、どうしたら良いのか激しく揺れたのです。どこに生きるかを考えあぐねたのです。それに対してイエスは、右往左往しなくても大丈夫、平安を持って生きられる場所、永遠の命の場所が与えられる事を語られたのです。それはこれから与えられるというよりも、既にもう与えられているのだ、と。

 その場所とは、イエスそのものだと言われたのです。「私は道であり、真理であり、命である」と。この道、真理、命は3つの言葉は旧約聖書に何度も登場する、当時の人々なら誰でも親しく、よく聞いたであろう単語でした。イエスはそれらはすべて自分なのだと答えられたのです。自分の中にそれらが与えられていると示されたのです。すなわち手本は自分なのだ、私を見よ、と。

 その上で、自分は父、すなわち神様の命に従っているのだから、自分を見る者は父を見るのだ、と続けられたのでした。今、確かにこの世的には危急の時が迫っているのかもしれない。しかし、終わりが迫っているのではない。かえって、この時にあっても、実は既に永遠の命の中にあなたたちは置かれているのだ、それは見える生の中にも見えない死の中にも貫かれている一筋の光であって、本当は私たちの命の営みすべてがそれによってなされているのだ、とイエスは語ったのです。それは絶望を希望へと転換する言葉でした。

 病気や迫害や戦争や飢饉や、事故や災害を通して、私たちは命について考えるようになるものです。その折、私たちには限界がありますから、トマスやフィリポのように、具体的な答えを求めます。病気にせよ何にせよ、痛む事は恐ろしいですし、それによって受ける不自由や不具合は避けたいと思うのが当たり前です。怖さや悲しみを先取りして、かえって落ち込んだり、より一層深い不安の中に陥ったりするのです。何もできなくなる状態が最も恐れです。

 にも関わらず、イエスはそのような次元での答えを私たちに示されませんでした。私たちが通常考える命の支えや関わりとは、全く違うものがあって、既にそこへ招かれ、導かれているという事を示されたのです。それは何となく分かるようで、にわかに分かることではないことかもしれません。

 けれども、イエスがこの時いざこれから歩もうとされた十字架の出来事、そして復活の出来事を後から私たちが見る時に、それが露わとされ、明らかにされて行きました。つまり、死によって終わりだったのではなかったということ、悲しみが喜びに変えられる出来事が確かにあったのだということ、そのところに私たちは実は前から立たされていたのだということです。

 イエスは常に神と共に生きたのです。その生前も、十字架の出来事の最中も、また復活の後も。常に神様が共にいて下さるその世界に生きたイエスは、自分を通して、あなたもそこに共に生かされているのですよ、招かれ覚えられているのですよ、だから、何もできなくなるなんてことを考えなくても大丈夫、心配ないですよ、という事を語り続けられたのです。

先週、また来年の桜が見たいと言われた方がいらっしゃいましたね。私も本当、そう願います。でももし見なくても心に刻まれた美しい光景を忘れることはないでしょう、と断言します。あの時私は確かにあの美しい桜の下に立ち、生かされておりました。そう言えると想像します。イエスが語ったのは、そのことでした。もうできないではなく、できた、がいっぱいの世界が既に与えられてあったのです。まだ見てないと思っていたら、もう見ていたのです。イエスと一緒に歩む世界の中のそれが置かれてありました。

「わたしが父のうちにおり、父が私のうちにおられると、私が言うのを信じなさい」とイエスは言われました。例えどんなに私が、自分が弱く頼りないとしても、同じようにご自分の弱さを抱えつつ徹頭徹尾神様と共に立たれ、確たる永遠の命について語り続けられた方の言葉が、私たちを明日へと運びます。


天の神様、たくさんのこの世の不安に囲まれている私たちです。しかし同時にそれ以上のあなたの世界に包まれている私たちです。感謝です。心配ないからと声をかけ続けて下さる主にこそ、すべての信頼を置いて歩めるように導いて下さい。


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