東神戸教会
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メッセージ

20170709 『 はいてはいけないクツ 』 使徒言行録 4:32~37

 先週の礼拝では、姜尚中さんの言葉をお借りして、私たち根源的な課題には悩んで悩みましょう、そして突き抜けましょうというお話をしました。それは私たち人は何者なのか、という神様からの問いかけに答えてゆくことだからでした。

 以前、橋本徹さんが大阪府知事だった時、40才の誕生日を迎えました。そのインタビューで、「自分は不惑の年となったけれど、迷う事は毎日ある。だから迷う前に一歩踏み出すという方針で行きたい」、そう答えたのです。

 その時、私は彼はもう少し悩んだ方がいいと思いました。ただし、確かに悩んでも仕方が無い事はあるのです。先週の話と矛盾するようですが、イエス自身が語ったことです。思い悩むな、と。マタイ福音書6章に、こうあります。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたのうちだれが思い悩んだからといって、寿命をわすかでも伸ばすことができようか。だから、明日のことまで思い悩むな。」

 命のことについて悩むのはきっと意味があることでしょう。そういう根源的な課題は簡単に答えが与えられない訳です。でも、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、と言ったある意味既に答えの出ている事については、思い悩むことは、かえってつまづきの元になることが多いものです。

 さて、ペンテコステの出来事を通して教会が誕生しました。今日のテキストを読むと初代の教会の信徒たちが誠に素晴らしい信仰生活を送っていたことが分かります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足下に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」

 これは本当に凄いことだったと思うんです。何が凄いかと言って、土地や家を売ることや、持ち物を共有したという事自体ではありません。それはもちろん凄いことの一つではありますが、そうではなく、こういうあり方、生き方が信仰を通して生み出されたということが凄いことだったと思うのです。何かのイデオロギーによってではなく、また政治や宗教の命令かそういう権威にかこつけて強要されたのでもなく、「信じた人々の群れが心も思いも一つにした」結果、このような分かち合いの生き方が導き出されたのです。それが凄いと思うのです。

 ただ残念ながら、この初代教会の麗しいあり方はいつしか消えてしまいました。むしろ、現代は余りにも「持つ」という事が個人的な当然のこととなり、あれが欲しいこれが欲しいのレベルを超えて「あれもこれも欲しい」という、際限のない欲望の世界となってしまいました。そして格差は広がってゆくばかり、目を覆うような貧富の実態となっています。私たちは、もう一度、初代教会の信徒たちが、どうしてこのような事をなしえたかについて思い起こして見たいと思うのです。

 その行動の源は、言うまでもなくイエスにありました。私たちも教会に集うこと、礼拝に出席することは、自分の決断や努力の故ではなく、イエスを通して神様から「招かれた」故に、ここにこうして集っていると信じています。

 そう、私たちの行動、言動の源はすべて神の「招き」にあるのです。いつだったか指揮者の小澤征爾治さんのインタビューを興味深く見たことがあります。インタビュアーは有働由美子アナウンサーでした。有働さんから、指揮者って一体何だと思われますか?という質問が出されました。有働さんもそうですが、私たちは一般に指揮者と言うのは、まあオーケストラの顔ですし、一番エライ人のように思っています。指揮者が楽団員を率いて自分の思うような音楽を奏でる、そういう存在だと想像している訳です。

 ところが小澤さんはこんなふうに答えたのです。「指揮者とはインバイトする者だ」「指揮者にとって一番大事な役目はインバイトすること」だと。インバイトとは、招くという意味です。それはもともとカラヤンが語った言葉だそうですが、例えばオーケストラには80人、100人の楽団員がいます。そして楽団員それぞれに音楽への思いがあり、生まれ育って来た環境の違いがあります。指揮者は無論、自分が楽譜を読み解いて、作曲者の思いを理解し、読解して、指揮者なりの世界を作り上げますけど、それは楽団員を無理やりそこへ引き込むことではないのだそうです。そうではなくて、それぞれ思いを持ち、違いを持つ楽団員を、一つの世界に「招く」ことが指揮者の務めなのだそうです。

 なるほど、と思わされました。そして、それは私たち信仰の世界も同じではないかと思いました。やっぱり私たちもまたイエスを通して神様の世界へ招かれたのだと思うのです。私たちもまた一人一人、生まれも育ちも違います。当然思いも違いますし、生き方が違うのです。でも、その私たちを神様は神様の世界へと招いて下さった、決して強制的にでもなく、何か騙されたのでもなく、神の愛によって「招かれた」のです。しかも私たちには「招かれる」に相応しい資格が何一つなかったにも関らず、招いていただいたのです。

 初代教会の信徒たちは、この「招き」について十二分に分かっていたのではないでしょうか。なぜなら、イエスが来られるまでは、お金や財産を持っている人ほど、神の祝福に預かるに相応しい人だと思われていたからです。逆に言えば、貧しい人は神の祝福からはずされた人だとされていました。しかし、それはもちろん神様の真意ではなかったのです。イエスははっきりそうではないと語りました。むしろ何も持たない人に、神様の思いを向けたのです。

 ですからこそ、イエスを通して神による招きを受けた人たちは、感謝と思いを一つにしました。そしてその心を分ち合ったのです。ユージン・ピーターソンという神学者が「思い悩む事は、膨大なエネルギーを消耗するだけで何の意味も効果もないのです。そこから全く何も生み出されません。信仰とは正反対のものです。信仰は、神に対して純粋に目を向け、ただ神のみ心に応えようとするものであり、そのような信仰が山を動かすのです」と述べています。

 とても解決できそうにもない大きな課題を前にする時、私たちはついつい不可能であるということの分析をあれこれします。或いは課題を担い得ない自らの弱さや愚かさに思いを巡らしたりします。紛れもない自分自身に問われた課題、自分に与えられた課題であるはずなのに、それを他者にすり替えたり、一般論に置き換えて、逃げたりもします。そしてその時山は動かないのです。

 けれど、それはどう体裁を取り繕おうとも言い訳である事を私たちは知っています。神の招きを受けてもなお、色々な言い訳をしてしまう私たちです。その私たちを神は更に招いて下さるのです。

 この招きに対して私たちが取るべき信仰の態度は、最終的にはただ一つ、言い訳をやめ、黙って従うことしかないでしょう。ノアの事を思い起こします。とてつもない課題が与えられたにも拘らず、ノアは一切黙って従いました。なかなかできることではありません。ほとんど無理とも思います。でも黙って従った人がいる事を、私たちは覚えねばなりません。なぜなら、それこそが私たちが自分で学ばねばならないことだからです。自分の事でなくても、他者の中にあるものを知るだけでも、私たちは変わるのです。招きを受けた者のなすべき応答がそこにあります。

 最後にクイズです。私たちが信仰生活において、はいてはいけないクツは、何でしょうか?答えは屁理屈です。


天の神様、あなたに純粋に目を向け、ただみ心に応えようとする信仰を与えて下さい。迷うかもしれません。でも思い悩まず、また屁理屈を言わないで、黙って従う者として下さい。


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