東神戸教会
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メッセージ

20170409 『 アンコールの幕が上がる 』 マタイによる福音書 27:32~56

 今日は最初に「オモカゲ」と言う歌を聴いていただきたいと思います。

私はとってもこの歌好きなんです。大西ユカリという大阪在住の歌手の歌(2004年作品)です。特に1節の「病気したり ケガしても 代わってやれない 悔しさよ」というフレーズは、子どもの事を思う親の切ない気持ちが十二分に表現されていると思います。

 今でこそ3歳になろうかという孫を育てている娘ですが、中学生の頃から精神的に病んで、一時は通常の生活を、ほとんど断念せざるを得ない状態が続きました。その間、夫婦ともども懸命に支えたつもりですが、すぐ完治するものではありません。正直親であることさえしんどいと感じた時もありました。それは実のところ何もしてやれないからです。まさに、「病気したりケガしても代わってやれない悔しさ」でした。

今は吹田で近いのですが、「遠く離れて暮らしても、健やかな日々を」信じて、これまで歩んで来ました。

 さて、「神様物語」というマンガがあります。業田良家という、私と同い年の漫画家の作品です。ある日神様が天使を伴って、町にやって来るのです。この神様、神様なのに何にもできないんです。たまたま知り合った若い女性の家に転がり込んで、居候を決め込みます。お金も何にも持っていないのです。でも人と同じようにお腹もすくし、寒い時には風邪も引きます。

 その家を拠点にして色々な人間と出会うのです。出会う人それぞれが自分の人生の課題を背負っている事を知らされます。希望を叶えられない人ばかりです。神様は何とかしてあげたいと思いますが、今言いましたように何にもできないのです。借金で苦しんでいる人にお金を上げる事もできません。病気で苦しんでいる人の病気を治してあげる事もできません。でも、その人もその人が生きているこの地球のすべても、もともとは神様が作ったものなのです。

 神様は自分で作ったものと出会うたびに、その素晴らしさに自分で感動して涙を流します。そしてその素晴らしさを一生懸命語り続けるのです。でも残念ながら、それで課題を負う人たちの救いにはならないのです。神様は自分の無力さを嘆きながら、それでも自分にできる事を精一杯しようと努力します。それはその人の傍らにい続ける事でした。何にもできないのだけど、その人をギュッと抱きしめてあげるのです。

 私はこのマンガを読んで、本当の神様もそうではないかと思っています。今日与えられた聖書箇所は、イエスがいよいよ十字架に付けられた場面の記述です。イエスと一緒に強盗たちが十字架に付けられました。ところがその罪人たちから罵声を浴びせられるのです。「神の子なのだから、苦しむ必要などないではないか。その力で自分を救い、十字架から降りたら良いではないか。」頭を振りながらののしったというのです。

 その強盗、罪人の罵声の尻馬に祭司長や律法学者たちが乗りました。「お前はイスラエルの王ではないのか。他人を救って自分を救えないはずはないだろう。十字架から降りて見よ、そうすれば信じてやる。」と。

 人々の念頭にあったのは、「イスラエルの王」そして「神の子」と自ら名乗ったイエスへの激しい憎しみでした。怒りと妬みもあったでしょう。しかしマタイ福音書によれば、少なくともイスラエルの王と称したのは、イエス自身では決してありませんでした。2章に登場する東の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねたのと、裁きに当たった総督ピラトが「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ねたのと、そして十字架刑が決定した折に兵士たちが「ユダヤ人の王、バンザイ」と言って侮辱した、このすべての記述において人々が勝手にそう称したに過ぎないのでした。

 王という言葉から人々がイメージするものは、何でも好きな事ができる。それだけの権限と財力を持っている、そういう像です。お金があり、力があり、地位があるならば、確かにこの世においてはほとんど何でも自由にできる訳です。

 娘の調子が一番悪い時、私も思いました。もし自分にお金があったなら、この世で一番良いお医者さんに見てもらってやりたい。地位があるならそれを使って、どんな事でもしてやりたい。私のようなできの悪い親でさえ、そう思いました。人々は、王なら当然それができる。それだけの力を持っていて当たり前、そして持っているならその力を使ってこそ王である。そう信じ込んでいたのです。

 けれども眼前の救い主は違いました。そもそも東の博士たちがはるばる主を訪ねて来た時に、既に人々が思い描く「王」ではない事が示されておりました。博士たちは王宮にやって来たのですが、そこに救い主はおりませんでした。星に導かれて出会った場所は、誠に貧しい、馬小屋であったのです。同じように、今彼らの勝手に勘違いした「王」は、衣服すら剥ぎ取られて十字架に付けられておりました。みすぼらしい、惨めな姿でした。到底、人々が思うところの王ではなかったのです。

 しかし私も同じ事を思います。子どものためにもし自分に力があったなら、どんなことでもしてやりたいと思うからです。イエスがもし本当に王だったなら、存分にその力を振るわれれば良かったと思うのです。そうして憎き兵士たち、無能な祭司長や律法学者たちを一瞬のうちに打ち負かしてしまえば良かったと願うのです。

 けれども、それこそが勘違いでした。私は、イエスにはその力は与えられてはいなかったと今思うのです。確かに病を癒したり、水をぶどう酒に変えるような力はあったかもしれない。でも、それはそれぞれの人々との出会いの中で起こされた必要止むを得ない出来事であったからこそ生まれた、奇跡の力だったのであり、ことここに至って、悪を一挙に踏み潰す力など始めからイエスに与えられてはいなかったのではなかったか。少なくとも、あのゲッセマネの園において「この杯を過ぎ去らせて下さい。しかしあなたのみ心のままに」と祈られ、立て、行こう、時が近づいた、と弟子たちを促された瞬間に、イエスに与え備えられていた力はすべて封印されたのではないか、そう思うのです。

 そうならば、遂に十字架にかけられたイエスに為し得た唯一の事は、父なる神のみ心に添って、空しく惨めに死んで行くこと、自分で何をしているのか分からない人々に代わって神様に取り成しをし、人間の弱さをそのままその身に負うこと、それしかなかったのではないかと思うのです。王としての力を振るい、神の子である証しを立てられるはずだとののしったり密かに期待していたのは、全部人間の側の勝手な勘違いであり、思い違いでありました。イエスは最後まで人々に寄り添う事だけを与えられていたのです。

 十字架の出来事に対し、イエスに嫌も応もありませんでした。むしろイエスは是が非でも十字架の死を受けるしかなかったのです。その無残な死を見つめられていた神からすれば、どんなにか悲嘆であり、深い慟哭の出来事であったのでしょう。それでもそれをそのまま見つめられ、受け取られた。もしその気になりさえすれば、いとも簡単にできる力を持っておられた、でもそれを使うことをなさらなかった、だから凄いのではありませんでした。徹底的に人として、人の子として歩まれた。人間がどんなに望んでも万能の力など持ちえませんが、イエスもまたその人間の一人として、持っていない力を望むのではなく、何も持っていないことに込められた神様の思いを死に至るまで味わい、歩み通されたのでした。誠に、そこにこそ神の深い愛が備えられたのです。

 アメリカのトランプ大統領はシリア政府が化学兵器を使ったとして、犠牲になった子どもたちへの思いを語りました。そして行われたミサイル攻撃で、市民9人が亡くなり、そのうち4人は子どもだったと報道されました。この子どもたちに対する大統領の声明はありません。理不尽です。本当にこの世には悲惨が満ちています。私たちは「哀れんで下さい」と主の哀れみを請い願います。しかし、イエスは既に限りない哀れみを私たちにその身を持って十字架にかけられたのです。

 そしてその上で復活され、弟子たちに「先にガリラヤで待っている」と呼びかけました。一緒に歩んで下さるイエスは、時々先周りをして私たちを前方から導いて下さるのです。「キミより先に行くよ」と。それは、憎しみや悲しみや痛みを乗り越えた、本物の神様の地平からであるのでしょう。私たちに先行する哀れみがあります。その哀れみの幕が今年もまた再度上がろうとしています。神さまの技のアンコールを祈り願わざるを得ない私たちです。その願いを神は聞いて下さる。その地平を信じたいと思います。


天の神様、神様の思いに従い、私たちに死の瞬間まで寄り添って下さった一人子に感謝を致します。私たちもその愛の地平に立たされている事を思います。どうか、その愛に応える者として下さい。





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