東神戸教会
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メッセージ

20170423 『 負け越しの大一番 』 マタイによる福音書 28:11~15

 朝令暮改という言葉があります。定めた後から、次々と法令が改められて、よりどころとならないこと、という意味です。実際、政治の世界でよくあることで、いい加減さの象徴ですが、教育行政の世界でもしばしばあります。ついこの間までは、詰め込み教育が駄目だということで「ゆとり教育」が実施されていたのに、今ではすっかりそれが否定されています。
 それとは少し違いますけど、個人の生活の中でも「その時はそう思うたんや」という事があるように思います。その時点では、まさにそう信じ込んで言動したのだけど、後になってみれば、そうではなかったということがある訳です。その時決してええ加減なつもりはありませんでした。その時は真面目にそう思ったのです。でも実は思慮が足りなかった、知識も経験も欠けていた、或いはその時点での心のありようが十分ではなかった、例えば疲れていたとか、熟考する状態になかったとか、そう言う時の言動は、後になって変わることがよくあるものです。
 さて、どんなに頑張っても必ずその努力が結ばれるとは限りません。圧倒的に勝てない相手もいます。空しい戦いは確かにあります。例えば広島がまだシーズン20試合を残して優勝したとします。Bクラスの阪神は消化試合を続けるだけです。或いは大相撲で14日め、ちょうど7勝7敗で来た或る大関は、明日負け越したら大関から陥落する。既に横綱の優勝は決定していて世間の関心は大関にはほとんど向けられていない。そんな孤独で崖っぷちの事態が、決してドラマではなく現実に起こることがあるのです。スポーツの世界に限らず、平凡な多くの個々の人生の中でも起こるのです。注目を浴びる訳でなく、むしろ誰からも顧みられず、少々頑張っても未来に何ら影響することはない。もう諦めて適当にやり過ごしても、別に構わないでしょう。放っておいて下さい。そんな捨て鉢の時がやっぱりあるものです。
 イエスの復活は、決してマグダラのマリアたちや弟子たちだけが目撃し、体験した出来事ではありませんでした。実はローマの番兵たちもその目撃者だったのです。イエスが葬られた墓の前には当局から番兵がつけられていたのです。先週読みました復活が記されたテキストの一段落に記されています。今日のテキストの一つ前になります。マタイ福音書28章4節、「番兵たちは恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。更にはその後の、天使のお告げがなされた事、イエスご自身が婦人たちに出会わされたこと、こうした出来事を番兵たちはつぶさに見聞きしたのでした。
 ですから、今日のテキストの11節には「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」とあるのです。それはもうよほど急いで帰って、報告を為した訳です。
 ところが、この報告を聞いた祭司長たちは、長老たちをも呼び集めて相談し、協議して、復活の出来事を隠蔽しようとしました。協議というより、謀議と言うべきかもしれません。また捏造と言ってもいいでしょう。兵士たちに多額のお金を与えて風雪の流布を指示したのです。虚偽の噂を流せということでした。なぜならば、イエスが復活したということになれば一大事だからです。三日前やっとの思いで十字架刑につけて長年の怒りと恐れを払拭したばかりなのに、それ以上の不安が巻き起こることになるからです。彼らにとって復活などどうあっても認められるものではありませんでした。そこで「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言えと命じたのです。
 番兵たちは墓を監視するために派遣されていたのですから、寝ていたということになれば、相当の処罰を受けねばなりません。だからこそ、多額のお金を与えたのです。多額のお金とありますが、原文には十分な銀貨と書かれています。銀貨1枚が当時の兵士の一ヶ月の給料でした。正確には幾らか分かりませんが、イエスを売ったユダに支払われた銀貨は30枚だったことからしても、恐らくは数年分の給料に匹敵するような額であったと推測されます。
 その上、寝ていたことが総督にばれても処分を受けないよう、うまく説得してやるから、あんたたちの心配がないようにしてやるから」という誠に親切丁寧な配慮を付け加えました。
 兵士たちからすれば、断ることなどできようはずはありません。彼らは金を受け取って、教えられたとおりにした、と15節にあります。そうした細工の結果、この隠蔽工作は上手く行ったのでしょうか。そうはいかなかったのです。
 もしこの工作が上手く行ったのなら、今日に至るまでイエスの復活は覆い隠された、なかったものとなっていたことでしょう。それがそうはならなかったし、この工作が聖書に記録されていること自体が、兵士たちのその後の言動を証ししているのです。
 つまり、兵士たちは、確かに一旦は指示通りの事をしたのでしょう。が、その後どう考えても自分たちが見聞きしたものの真実さを隠すことはできなかったのだと思われます。婦人たちが証言し、また弟子たちが証言したことが巷に知れ渡って行くに連れ、兵士たちもまた口を塞ぎ、偽りを語り続けることに耐え難い苦痛を感じるようになったのだと想像します。それが真実が持つ重みというものです。人は語るように作られているのです。
 先ごろ、政府は関東大震災の時に起こった朝鮮人たち外国人が虐殺された出来事の記事を内閣府のホームページから削除すると発表しました。従軍慰安婦の問題とも重なりますが、自分たちの不都合で真実を見つめないことで、別の事実を作ることにはなりません。むしろ、その不誠実がより深い亀裂を生みます。朝令暮改だけでなく、悲しいかな、権力はしばしばこの手の策を練るのです。祭司長や長老たちが取った工作と変りません。イエスの復活を否定し、何としても自分たちの主張を通そうとして偽り、隠蔽しようとしたことと同じことだと思うのです。
 番兵たちは祭司長らの指示にひとたびは屈する他ありませんでした。その時はそう思うたんや、ということです。けれども、自分たちが直接見聞きした真実が、偽りを上回りました。負け越しかと思われましたが、イエスの復活は揺るがないものを表しておりました。
 イエスの十字架はこの世の力による敗北でした。それは分かり切っていました。でもその敗北を正面から受け止めることを通して、復活へ導かれたのです。負けると分かっていても、その負けをどのように負けるか、受け止めるかが、次の一歩を生み出すのです。負け越すかどうかがかかった大関の千秋楽の大一番、相手は14勝無敗で優勝を決めた絶好調の横綱です。勝てる見込みがありません。でもどのように負けるか、そこが大事です。次のためです。イエスは十字架という負けを自ら受け入れました。
 紀元369年、ゲルマン民族のウルフィラという人が、ギリシャ語からゲルマン語で聖書を訳しました。その折、テオスというギリシャ語にゲルマン古語の「グス」という言葉を当てました。それが英語でいうゴッドの元の言葉になったのです。グスとは語りかけられる存在という意味の言葉でした。
 今日の短いテキストにはイエスのことも、神様のことも何も出てきません。でも番兵たちは神から語りかけられたのです。初め崖っぷちに立たされ、仕方なく上の言いなりになった彼らでしたが、負け越しへの大一番で大切な人生への後押しを受けました。その語りかけ、後押しがあったから、彼らは自分の見た真実を語る者とされました。彼らは見た、聞いたと思っておりましたが、本当は彼ら自身が神から見られていたし、聞かれていた、そして語りかけられたのです。
 私たちは変ります。揺れ動きます。その時々、その時点ではそう思ったことが、後から幾らでも変る存在です。ですからバラ色の人生を望んだとしても、そうそう実現しません。むしろ茨の人生に陥ってしまうのでしょう。
 どんな時も揺るがない、復活が示したイエスの真実の姿にこそより頼みたいと思うのです。それはバラ色でも茨でもない、茨色の人生と言う生き方です。イエスが聞いて下さる、見ていて下さる。その時はそう思うたんや、ではなく、その時も、この時も、あの時も、今もこれからも、そう思います、アーメンと答えながらイエスの道を歩みたいと思います。
 
天の神様、あなたの真実を証しする者として私たちを用いて下さい。




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