東神戸教会
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メッセージ

20170528 『 原罪・過去・未来 』 ヨハネによる福音書 17:1~13

 以前よく見ていたテレビに「はじめてのおつかい」という番組がありました。今もやっているんでしょうか。これは題名の通り、幼稚園前くらいの幼子たちに親が初めて子どもだけでおつかいしてくるように頼む内容です。ただ頼んだのはいいけど、実は親は心配で不安で堪りません。もちろんこっそり撮影するスタッフが何人もついていますので、万一の場合には充分備えられているんですが、一方の子どもたちは無邪気に何も知らずにおつかいしてくる訳です。

ちょっと覚えているのは、幼子三人でバーベキュウの道具や材料を調達してくるよう頼んだものがありました。男の子一人と女の子二人です。子どもと言えど、互いに好き嫌いもあればプライドもあります。男の子は女の子の一人が好きなのです。でももう一人の女の子の方が男の子を好きなのです。言わば三角関係の三人組。

ですからそれぞれに思惑が入り乱れて、道中様々な組み合わせとなります。うまくカップルになってみたり、その逆になってしまったり、でも案外男の子が転んで泣いたりして予想外に情けないことになったり。その結果、女の子二人で先に買い物に行ってしまったり・・・。

 思いがけず雨が降って来ても、それでも最後まで頑張ってやり遂げるのが素晴らしいんですが、これを観て、それぞれの場面で実に子どもたちが子どもらしくていいなあと思いました。例えばケンカが起こる。するとはっきり「○○チャンなんか、大嫌い」、はっきりそう言うのです。大人だったらそうは行きません。それを言ったら駄目なんです。おしまいになるからです。大人はそのことを経験上でも予想の上でも知っているから我慢します。我慢した結果、ストレスを貯めてしまいます。

 でも幼子ははっきり言う。言っても駄目にはならないのです。例え同じ事を過去に体験していても、言います。それを言ったからとて、これから先駄目になることはないのです。実際番組の三人はそんなケンカをしながらも、協力し助け合い、いつしか仲良しに戻って行きました。そんなところ、子どもってほんとにいいなあと改めて思います。

 アメリカの神学者ユージン・ピーターソンが、「私たちは歴史を無視したような時代に生きています。皆、記憶喪失に陥っているようにさえ見えます。現在のことだけにどっぷり浸かっているのです。過去からも未来からも満足できるものが何一つないからです。」と或る本で書いています。

 与党自民党は憲法の改正を加速させる準備委員会を立ち上げました。それに先立って首相は、2020年に改正憲法施行という計画を発表しました。。戦後70年経っても、私は、私たちの平和の原点はあの敗戦であり、そこからの出発だと思っています。わずか70年で歴史を無視し、忘れ去ったかのような時代に私たちは生きています。ピーターソンの言うように、確かに記憶喪失に陥っているようにさえ見える。事件や事故がすぐに風化し、過去を水に流して忘れてしまいやすい私たち日本人には特に鋭い指摘かもしれません。

 私自身、振り返ると確かに「現在のこと」だけにどっぷり浸かっている生活だなと思うことがあります。正直言って、過去はもちろん未来に対しても満足できるものを確かに何も持ちえておりません。現在のことだけで生きる、それは限界ある私たち人間にとって、そうするしかない当たり前のこと、それ以外にどう生きたらいいのだ、そういうふうに居直っても思える訳です。

 でもピーターソンは先ほどの文章に続けてこう述べます。「でも私たちは既にイエスに教えられていますから、自らの物語として、過去を理解することができますし、イエスが約束されたものとして、未来を予測する事ができます。そして緊張感のある喜びと、生き生きした望みとをもって生きて行くのです」と。

 私はこれを読んで、現在でしか生きられない事こそが、私たちの持って生まれた罪、原罪なのだなとつくづく思わされました。私たちにとって原罪とは何でしょうか。キリスト教の辞書をひもとけば、あれこれ書かれています。例えばアダムから生じた、生まれながらにして神から離れたものであり自己中心の存在であること、これが原罪と書いてあります。

 これまたその通りだと思うんですが、ピーターソンが言うように、イエスから教えられている者として、自らの物語として過去も未来も理解しなければなりません。神を知らず思わず生きていたあの頃。でもイエスと出会わされた事。この事を通して絶望から希望への道が示されたこと。これを自分自身の物語として覚える訳です。でも悲しいかな、うっかり忘れている。神から離れていること、そして自己中心の存在である事とは、過去も未来もなく現在にだけどっぷり浸かって顧みない事を表しているのだと思うのです。

でも、神から離れてはいるけれども、そう思っているだけで実は私たちは神のうちに、神の歴史の中に生かされているのです、そのことを命をかけて証されたのが、それがイエスという救い主でした。伝道の旅の中で繰り返し呼び掛け、思い出せて下さいました。今日の聖書の箇所、イエスの祈りという小見出しがつけられていますが、祈りと言うよりは遺言の言葉です。その13節に「しかし今、私はみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです」と記されているのです。これもこの遺言説教の中で何度も語られました。

これらの事とは、一言で言えば人間が神のうちに生かされているという事にほかなりません。そしてそれを知って生きる事がどんなに喜びで希望に満ちたものか、一番ご存知だったのが他ならぬイエスであるのです。これから始まろうとする十字架の出来事の前に、既にイエスはその喜びに満たされていました。これは遺言です。これから十字架につかれたのです。この時どんなに恐れがあり不安もあったでしょうか。でももしそれだけだったら、それを受け入れる事はできなかったのです。イエスにも恐れや不安はあった。ゲツセマネの祈りの通りです。

にも拘らず一方でイエスには神の中に生かされる喜びや希望も同時に、しかも厳然とありました。それだからこそ、イエスはイエスの現在に耐ええ得たのです。それは過去から未来へと続く生きる力でした。現在のことだけにどっぷりと浸かり、もっと大きな喜びを知らない人々も同じ過去から未来へ続く喜びに満たされて欲しい、それがイエスの願いでした。

神のうちにあるという視点の中で過去を振り返れば、ただ失敗やつまづき、苦悩や後悔だらけの過去が違って見えてくる事でしょう。或いは神のうちにある視点で未来を見つめる時、ただ不安とあせりと絶望だけではないものが見えてくるのでしょう。それが平安であり、救いという事なのだと思います。この世の視点を脇において神の視点から見るなら、例えば銭金だけではない喜びが人生の中に幾つもある事を信じます。

私たちは現在を生きるしかできない小さな存在です。それが私たちの原罪です。でもそこにイエスが加わって下さる時、その視点を与えられる時、現在を生きるしかないけれど、どっぷり浸かってしまうのではない、どんなに失敗しても未来へつなげられる希望が与えられる。幼子らのように「嫌い」でもまた仲直りできる。もし今振りほどいていても、また繋いでいただける、そういう力が与えられます。具体的にその力が与えられたのがペンテコステの出来事です。今週1週間。聖霊の力を思いながら次週のペンテコステに備えましょう。


天の神さま、あなたを信じて生きることが、明日を望むことだとしっかり知らせて下さい。


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