東神戸教会
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メッセージ

20170618 『 何かを一つ覚えて、役に立てば良し 』 エフェソの信徒への手紙 5:1~5

 今週土曜は教団創立記念日です。76年を迎えます。現教団の行うことの中で、違和感を持つことが幾つかあります。例えば今年はルターの宗教改革から500年ということで色々な記念行事がなされること。またプロテスタント伝道150年を記念した2009年以来、牧会50年になる牧師を表彰して、記念品に聖書を贈って来たこと。などなどです。
 記念行事そのものや記念品の事で腹を立てるのではありません。そうではなく、500年とか50年という時間に意味合いを敢えて持たせることへの違和感があるのです。50年牧会を続けられた先輩牧師方の働きや歩み自体は、それはそれで恵まれたことだと思っています。
 でも私にとって思い起こすのは、例えば10年前に突然脳内出血によって天に召された後輩の西村篤先生のことです。同志社卒業後、鹿島教会で伝道師をされ、アメリカのパイン合同教会の牧師を経て、神学部へ戻って来られわずか1年半、実践神学担当助教として大いに将来を嘱望されていた先生でした。公的にはまだほとんど何もしないうちに、思いがけない病で召されてしまったのです。本当に残念でなりませんでした。
 正直に思います。牧師の仕事は、何年続けたから立派とか、エライとかでは決してありません。(牧師だけではないでしょう)表彰したりされたりする類ではないと私は思います。西村先生は、出会いをとっても大切にされる人でした。短い生涯の中で大変多くの方々と誠実に交わり、感化を与え、実にたくさんの働きをなさったのです。ですから今でも先生との出会いを思い起こし、その人柄や授業を慕う教え子たちが大勢いることを知っています。それは公的には記録に残らないものです。彼の働きはまさに短かったとしか言えません。けれども、私たちの心にははっきりと刻まれているのです。何よりも神様の記録には間違いなく残されていることと信じます。長さなど問題ではないのです。もちろん、量でもありません。
 同様に、キリスト教的な権威づけに反対して立ち上がった宗教改革運動ですから、500年という節目に、私は基本的には何の意味合いもないと思っているのです。
 さて今日のテキスト箇所を注解した文章の中で、浜田広介さんの書かれた「たぬきのちょうちん」という童話が紹介されていました。浜田広介さんは、泣いた赤鬼や竜の目の涙で有名ですね。とってもいいお話しですし、長くないので読みたいと思います。

おじいさんのたぬきがいました。
年をとって最近では穴の中でおとなしくしているだけでした。
「おじいさん、何をみているの?」まごのたぬきがききます。
おじいさんたぬきは、まごのたぬきのかおを見つめながら
「空と雲を見ていると、昔のことがおもいだせるんだよ」
とこたえて、おじいさんのわかいころ化けた話をしてきかせました。

そしておじいさんたぬきのおじいさんから
いわれた話を、まごのたぬきにしてきかせました。
おじいさんのおじいさんは「お前はけして気のきく子では
ないけれど、なにかひとつしっかりおぼえて
役にたてればそれでいいんだ。」と言って
たったひとつの化け方をおしえてくれました。
何に化けたいかときかれたおじいさんは、
いろいろ考えたすえに、暗い晩でもあかりをともせる
ちょうちんがいいと思いつきました。

おじいさんは、いっしょうけんめい
化け方をならいました。
まごのたぬきがききました。
「そのちょうちんを誰がもっていたの?」
おじいさんはこたえます。「お祭りのばん、村のはずれの
ヤナギの木にぽつんと下がっていたんだよ」
お祭りの帰りの人が、ありがたがって
とおっていくのが、うれしくて
今でも時々思い出すんだよ、と話してきかせました。

まごのたぬきは
おじいさんが、なぜうれしかったかわかりました。
人にしんせつにしてあげたからだと。
そして、おじいさんに言いました。
「ぼくにもその化け方をおしえて。人がうれしく思って
くれるなら、ぼくも化けてそのちょうちんになる」って。
 
 いかがでしょうか。何だか、いかにもせちがらいこの世の中にあって、じんと来るお話しだと思いませんか。ちょっとまとめバージョンで紹介したのですが、おじいさん狸が孫狸に語った正式なバージョンを読みます。
 「おじいさんは、な、生まれつき利口じゃないよ。ものわかりがのろいほうさ。よくききなさい。おじいさんのおじいさんが、な、ある日わたしに言ったのさ。おまえは気がきく子ではない。しかしそれでもいいのだよ。何か一つをしっかりおぼえて、役に立てればそれでよい。やってみい。一生懸命、やろうと思ってまじめにやれば、ものになる。一つわしがおしえてあげる。その化け方をしっかりとのみこむのだよ。馬鹿の一つ覚えで結構。お前は何にばけたいのか。」このセリフ、私は自分に言われているように思いました。
 このお爺さん狸の話にお爺さん狸が応えたのです。そして今、その話を聞かされた孫狸が応えたのです。心とはそういうものだと思わずにはおれません。愛ある教えからまた次が生まれるのです。愛の伝授です。伝道も全く同じです。身近な一人を通して伝えられ、次へと伝わるのです。それが神様の働きです。
 今まで勤めたどの教会でも、淡々と信仰生活の姿を見せて下さった方々がいた事を思い起こします。不平や不満を何ら言い立てることなく、自分のなすべき事を黙々となさる人たちでした。まさしく、「何か一つ覚えて、それが役に立てればよい」という最もシンプルな生き方だったと思います。でもそれこそが一番大事な愛の伝授力でした。受けたか、伝えたか、それです。
 或る牧師が昔、自分の家に初めて電話がついた日の事を書きました。すっかり携帯電話になってしまった現代では、ちょっとあり得ない出来事なのですが、届けられたピカピカの黒い電話が嬉しくて、珍しくて、家族みんなで電話の周りに座って、電話が鳴るのを、待ち続けたと言うのです。
 でもいつまで経っても、電話が鳴らない。「お父さん、電話がかかってこないねぇ」と息子は言いました。その時お父さんがハッと気づいたのです。「そりゃそうだ。誰もまだうちのこの電話番号を知らないんだからな」
 それでお姉さんが急いで近くの公衆電話まで自転車で走って、自宅に電話しました。そうして家族順番で電話に出てお姉さんと話しをしたという、ほのぼのした思い出話でした。
そしてその牧師は言うのです。伝えなければ、伝わらない、と。また、例えどんなに便利な携帯電話になろうと、相手の言葉を聞こうとする姿勢を整えない限り、双方向のコミュニケーションは成り立たないのだ、と。
 お爺さん狸は誠実に、自分の経験を孫狸に話して聞かせました。孫狸はまた静かにそれを聴きました。そこにはお互いに満たされる愛の力があったのです。
 今日のテキストの1節と2節を読みます。
「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣う者となりなさい。キリストが私たちを愛して、ご自分を香りの良い供え物、つまりいけにえとして私たちのために神に捧げて下さったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」
 この言葉の裏に著者がイエスから与えられた愛の伝授力が満ちあふれているように感じます。イエスが伝道の旅、宣教の旅をしたのは、思えばわずか三年余りでした。その間なかなか聞く事のできない、気の利かない弟子たち、人々がいつも周囲におりました。しかしそれでもイエスは伝え続けたのです。そして最後は一方的に十字架にかけられ、ついに命を捨てられました。人々の心を愛でいっぱいに満たし、イエスの使命が終わった時、聞けなかった周囲の人々は聞く人へと変えられて行きました。
 私たちも同じです。私たちも気の利く者ではありません。でもイエスを通して愛に満たされたのです。満たされた私たちにとって、信仰生活は、まず聴く心を養う日々であり、聴く姿勢を整えられる日々ではないでしょうか。イエスの愛を伝授された私たちは、聴く者でありたいと思うのです。そして聴いたなら、今度はそれをしっかり覚えて、何か一つ神さまの役に立ちたい、立てれば良いと願うのです。もし、ちょうちんに化けられたら、いう事はありません。


天の神様、あなたの愛の力をありがとうございます。かつてサムエルが言いました。「しもべは聞いています。主よ、お話し下さい」と。私たちの聞く姿勢を整えて下さい。そして主の働きにお用い下さい。



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