東神戸教会
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メッセージ

20170702 『 スパイスを効かせるべし 』 コリントの信徒への手紙 8:1~15

 或る時、私にとって大先輩の牧師から「私は自分が何者かってことで、悩んでいる」と聞かされました。それは私にとってちょっとショックな発言でした。それで後で、「先輩でもまだ悩むんですね」と言いましたら、「当たり前やないか」と叱られてしまいました。
 そう、私たちはもちろん具体的なこの世の課題で悩む訳です。今晩食べるものに始まって恋愛の問題や就職・進学の問題もそうですし、お金の悩みもありますし、体の悩みもあります。でも、そういうみじかで具体的な課題ではなくて、人生って何なのだろうとか、自分は何者なのか、とかのいわゆる根源的な課題があります。往々にして、それは若い頃に抱える悩みである訳です。
 ですから、私から見れば数多くの経験を積み、十分に働きを為して来られた、70を超える大先輩がその年齢になってまだ悩んでいると言われたのは、一種の驚きでありました。けれども、それは嬉しい刺激でもありました。
 よく考えてみれば、何のために生きるかと言った根源的課題は、一生の課題なのです。仕事や生活の忙しさ・あわただしさによって、或いは仕事や人生に慣れてくることによって、次第に考える時間がなくなったり、考える事すら忘れてしまっているだけであって、本来は、何歳になろうとも大事な悩みなのでした。
 いつの頃からか、悩む事は暗い事と言われるようになり、軽いジョークを飛ばしている方が楽しくて良いとされるように変わりました。芸人さんばかりが出演しているテレビ番組が増えました。そこでは笑いが不可欠です。笑ってばかりで、ふと溜息が出るのです。
 姜・尚中さんが書いてベストセラーになった「悩む力」という本では、悩まない世界は病んでいるのだとあります。本来、根源的な悩みは、なかなか答えが見つからないのです。ですからお手軽な方へ流れてしまいがちです。でも、姜さんは言われます。悩んで悩んで、突き抜けよう、と。
さて、コリントの教会で行き詰まった雰囲気が満ちて来ました。単純に現代と比較はできませんが、 信仰がある意味惰性となり機械的になってくる、それと世の中の動きが連動する中で、妙な利己主義が蔓延るのは昔も今も同じなのだと思われます。
 私たちの信仰生活は生きているのです。例えばマクドナルドのハンバーガーショップへ行きますと、全国どこの店でも同じマニュアルによって対応がなされます。作り方も同じですから、味も同じです。それがいいという人もいるかもしれませんけど。
 でも、教会はそうではないのです。それぞれ環境や歴史が違う人間が集まっています。大事なのは、そこです。違う人間がイエスによって、神によって一つとされている、その一点が最も大切なのです。それなのに、すべて教団のマニュアル通りでなければならない、聖餐式はこうであらねばならない、どこへ行っても同じであるべきと考えるとしたら、間違いだと思います。
 コリントの教会でもそれが起こったのです。クリスチャンはこうであらねばならない。コリントの教会員ならばこうすべき。それを皆で考え、相談し、生み出したのではありません。一部の人たちの考えた、自分の信仰生活をこう送りたいという個人的意見・利己的主張が力を持ち、そして影響を強め始めたのです。その結果は言うまでもありません。一つにされるどころか、かえって一致することが困難となり、教会の交わりに大きな亀裂が生じて参りました。言わば分裂の危機に陥ったのです。
この事態を聞き及んだパウロは、断じて黙って見過ごす訳には行きませんでした。教会が一致するのは、方式や定めではないからです。イエスに救われた者の心が一致する事を言うのです。そこで既にマケドニアの諸教会が実施して、大いに成功していた事例をコリントの教会にも勧めたのでした。それは当時、経済的にも精神的にも困窮していたエルサレムの教会を献金によって助け励まそうというプログラムでした。
 それは、姜さんも書いたことですが、悩んだときには外へ出よう、という試みだったと思います。構造が固定化し、意識が内向きになると、悩むことはアホらしいことで、悩まないための様々な主張がなされるようになります。近年の日本がそうでした。課題をどう引き受けるか、どのように向き合うかをすっ飛ばして、安直に切って捨てる方法が取られるようになるのです。勝ち組か、負け組みか。何もかもが自己責任であって、責任を取れない者は去って行くしかない。そんな雰囲気が蔓延すると、身近な場所にすら居場所がなくなって、生きてゆけなくなるのかもしれません。ばい菌を殺そう、清潔な環境を整えよう、そして抗菌グッズ・除菌グッズがあふれる世の中になりました。そしたら思いがけないほど人間の生きる力が奪われ、ほんのちょっと昔には考えられなかった種類の病気がめちゃくちゃ増えました。現代人の生きるための体力は随分落ちたのではないでしょうか。
 パウロはもちろんそんな現代の状況を知るよしもありません。でも自分自身の救いをよく知っておりました。彼はクリスチャンを迫害する熱狂的ユダヤ教徒だったのです。それなのに赦されてイエスに従う者とされました。用いられました。神様のふところは、思いがけず大きく広く、深かったのです。
 エルサレムの教会へ支援をなすことは、決してエルサレムの教会員を助けることのみに留まりませんでした。単なる援助ではなかったのです。外に目を向け、心をそこへ置く事を通して、神様の救いの意味をもう一度思い起こし、コリントの信徒の信仰自体が改めて蘇ること。パウロはそう確信しておりました。13節・14節にこうあります。「他の人々には楽をさせて、あなた方に苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」
夜と霧を書いたフランクルがこう述べています。「我々は生きている限り悩む。人間は幸福を見出すために生まれてきたのではない。意味を見出すために生まれてきたのだ」。
 私たちもそうです。信仰は神の救いの結果です。でも、だからと言って、二度と悩まないようにされるのではありません。悩むことは悪いことではないのです。フランクルは「悩みを持たない人が最大の不幸だ」とまで語っています。信仰によって、私たちは新たに悩むようにされるのです。あなたは何者なのか、それは、神様からの問いかけなのです。パウロはダマスコへの途上、目を見えなくされた時、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」という主の問いかけを聞きました。それは言い換えれば「あなたは何者なのか」という問いでした。この問いかけを聞く時、内向きに陥らぬよう、自分の世界にだけ浸ることのないよう与えられるのが信仰のスパイス、すなわち隣人であり、他者なのだと思うのです。パウロにはアナニアとの出会いが与えられたのでした。
 先週、神戸女学院大学の礼拝に行って来ました。礼拝が終わって、一人の女学生が「牧師様」と言って、私のところに来ました。そして「今日まで自分は不真面目に生きて来ました。けれど今日から真面目に生きて行きます」と涙を流しながら語ったのです。驚きました。自分の存在が思いがけず用いられたのでした。
 料理にはより一層味をひきたてるスパイスが時々用いられます。こういうスパイスが効く時、人生においても私たちに生きる意味がより一層、はっきりとしてくるのではないでしょうか。信仰のスパイスを頂いて、悩み迷う私たちも、或る時突き抜けて歩んで行きたいと思います。


天の神様、悩むことから逃げないで、そこに突き抜ける答えを与えて下さい。前向きに悩むことを得させて下さい。



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