東神戸教会
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メッセージ

20170430 『 プレミアム エブリディ 』 マタイによる福音書 12:38~42

 私の後輩で、「今日はふところが暖かい」とか「今日はふところが寒い」とか若いのにいつも古風な表現を使う牧師がいます。何かの委員会や集会の後、どこか一軒寄って行こうかとなった時、必ずそう言うのです。で、ふところが暖かい時はためらわず参加するし、ふところが寒い時はあっさり帰って行くのです。私などはふところが寒い時でも、ずるずる参加してしまう方なので、彼の潔いというかきっぱりとした毅然な態度を内心、尊敬しています。
 ふところが寒いだの、暖かいだのは、もちろんその時の所持金、財布の中のお金の事情を指している訳です。お金があれば余裕もあるでしょうし、逆にお金がなければ心もとなかったり身動き取れないのは当然のことです。その場合、お金というものは行動するための保障、或いは源と言えるでしょう。ですが、そう分かっていても気持ちの上では時にそう合理的な判断や分別のつかない時もあるのです。お金を持っていたとしても、参加できない、参加したくない、そういう場合もあることです。
ですから、ふところが暖かければ迷わず参加し、ふところが寒い時は、さっときびすを返して帰って行く後輩の姿を見ていると、生き方の方向まで表しているようで誠に気持ちが良いのです。
 さて、今朝のテキストは、潔くない人々の登場です。「何人かの律法学者とファリサイ派の人々」と38節にあります。「すると」、と冒頭にありますので、一つ前の段落に関係しているように思われますが、これは『その後』というくらいの意味合いなので、特段の関係性はありません。
 ともかくイエスが話しをされた後、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がやって来て、「先生、しるしを見せて下さい」と言ったというのです。先生と呼んでいますし、一見下手に出てのお願いのようにも聞こえますが、そうではありませんでした。これはイエスの言動に対して、それが神から由来するものだということを示すしるし、もっと分かりやすく言えば証拠を見せろということなのでした。
 ここまでいろいろな言動を為してきたイエスでしたが、彼らにとってはそれは自分たちを差し置いて目立つことであり、目の上のたんこぶのようなことでした。ですからそれは神の権威、或いは神の力によるものなのか、そうなら証拠を出せ、ということだったのです。先生などと呼びかけてはおりますが、実は慇懃無礼な態度だったことでしょう。
 店で飲食したり、買い物したりする時、たまに前払いの店もありますが、まあ普通は支払いは最後に済ませます。ところが彼らにとっては、どこの馬の骨とも知れない奴が、ばんばん買い物し、飲食しているがごとき様に映ったのです。ところがよく見れば、身なりも貧しいし、一体最後の支払いは大丈夫なのか?ふところ具合はどうなのか?というような事に等しかったのです。
 それも、持っているのかどうかどうも怪しい、何となく不安を覚えるというものではなく、こいつはきっと何ら持ってないに違いないという断定から、この物言いになったのです。
 だからこそ、イエスははっきり答えられました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と。まさに彼らこそが悪意ある、よこしまな連中でした。そして返答として二つの例を挙げられたのでした。一つは預言者ヨナのしるし、もう一つは南の国の女王のことでした。
 では一体、預言者ヨナとはのしるしとは何だったでしょう。それはもう律法学者やファリサイ派の人々ならもちろんよく知っていた旧約聖書ヨナ書に、ヨナに関する出来事が詳しく書かれています。ざっとまとめますと、ヨナは神様からニネベの町の人々を悔い改めさせるよう命じられますが、自信がないので逃げ出してしまうのです。船に乗って正反対の方向へ行くのです。ところが嵐が起こって船は沈みそうになり、彼は荒れ狂う海に投げされてしまいます。そして大魚に飲み込まれ、三日三晩を魚の腹の中で過すはめになります。それはそもそも自分が神様に背いたことで起こされた災難でしたから、ヨナはそこで悔い改めるのです。その後幸い、吐き出され、今度こそ神様の命令に従ってニネベへ出かけ、神の言葉を伝えるのです。これに応えてニネベの人々も悔い改めました。
 一方、南の国の女王とは、いわゆるシェバの女王の事を指します。このこともまた列王記に詳しく描かれていますから、律法学者・ファリサイ派の人々なら誰でもよく知っていたでしょう。かつてソロモン王の名声を聞いた女王は、それが真実かどうかを確かめに、当時地の果てと呼ばれた地からはるばるやって来たのです。そしてそれを実感したので主を賛美し、礼儀を尽くして帰って行きます。自分自身も大きな力を有する女王でしたが、身の危険も顧みず長い旅をなしてまで、熱烈に尋ね求めて来た人でした。
 ヨナは魚の腹の中で神が自分に為して下さった事を思い起こして悔い改める訳ですが、敢えて言い換えれば、それは神が必要な事を十分に与えて下さる方だということでした。その事を忘れていたヨナは、自分は何も持っていない、助けなどないと思い込んで一度は逃げ出したのです。言わばふところが寒い現実に耐え切れなかったと表表してもいいでしょうか。
 シェバの女王は逆に、ふところは潤っていましたが、心が飢え乾いておりました。そのために遠き地より神の言葉を求めてやって来たのです。求める人々の姿には共通するものがありました。いずれも悔い改める人々の姿をイエスは挙げられたのです。
 復活節に当たって思い起こします。イエスの墓に急いだ女性の中にマグダラのマリアがおりました。マリアにとってイエスはなくてはならない存在でした。そのイエスが死んでしまった。そして墓に駆けつけてみると遺体がなくなっていた。重なる悲しみの故に、彼女は泣くことしかできませんでした。
 そのマリアに背後から近づかれたイエスは、呼びかけられたのです。その呼びかけに応えてマリアは後ろを振り向いたとヨハネ福音書は記しています。それは振り向いたマリアの行動が、復活に預かったマリアの姿だったからです。
 例えば時々子どもを叱ったり、注意したりします。その折、自分や親の言葉に納得が行かない時、大抵子どもは横をぷいっと向いて、いかにも不満の様子を露にします。そういう態度を取れば、余計説教が長くなるのに、アホです。分かっていません。でも笑えません。大人だって同じだからです。聞けない時は、そっぽを向くのです。相手を見ようとはしません。
 悔い改めるとは、聞こうとし、見ようとして向きを変えることなのです。それもマリアが後ろを振り向いたように180度向きを変えることであるのです。神の方を向くとは、人の方向・この世の方向から100%視線を変える、そういうことです。預言者ヨナも南の女王の話もその事を示しておりました。
 このヨナのしるし以外のしるしはないと、イエスははっきり語られたのです。同じように自分も三日三晩、大地の中にいると言われました。十字架の死と復活が暗に込められていました。そしてここにヨナにまさるものがある。ここにソロモンにまさるものがある、と続けました。
 姑息にもふところ具合を確かめようとした律法学者やファリサイ派の人々に、今幾ら持っているという事を示されたのではありません。さもしい真似をするなと諌められたのでもありません。そうではなく、目の前のもの、見えるものによるのではなく、その見つめる視線、向きを変えなさいという事を示されたのです。
 神様が下さったこの人生、それぞれの命は、この世の価値観のみによって決まることでも、変ることでもないからです。お金を持っているかどうか、言い換えればよく生きるために、この世の権威や力、学歴や地位などが不可欠、決定事項ではないということです。それらはしるしではないのだと。
 神が示されるものに聞いて行く時、例えそれらを持っていなくても、すなわちこの世的に言うふところが寒い時であっても、心は温かい、ふところ暖かく生きて行けるのです。これこそがプレミアムです。何とか景気を良くしたいと願って登場したプレミアム・フライデーという仕組みですが、おおかた関係ないというか、流行ってないように見えます。と言うより、神さまが下さる恵みで言えば、何曜日にのみということはないのです。何曜日であろうと、毎日が特別な備えの日です。この世的価値よりもっと大事なもので満たされたいと願います。


天の神さま、連休のこの時、本当に大切な価値に気づかせて下さい。それを発見するため違う方向を見る姿勢を与えて下さい。それを見たなら、姿勢を変える勇気も与えて下さい。





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