東神戸教会
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メッセージ

20170416 『 この世界の片隅が 』 マタイによる福音書 28:1~10

 「笑いを売った少年」という小説があります。ドイツの作家ジェイムス・クリュスという人の作品です。有名ではありません。新しくもありません。もう半世紀近く前の作品です。が、現代にも十分通用する、とても示唆に富んだおもしろい小説です。

 ドイツのある町にティム・ターラーという少年がおりました。3歳の時に陽気で優しかったお母さんが亡くなり、貧しい人々が暮らす裏通りに引っ越すことになりました。大好きなお父さんは工事現場で働いているので、留守がちでした。

 お父さんはティムの事を思って再婚したのですが、新しい母親はかんしゃく持ちで、何かある度にティムをぶつのです。連れ子でティムの義理の兄となったエルヴィンは、わがままで意地悪でした。ちっともかわいがられない、つらい日々が始まりました。

 でも日曜だけは、優しいお父さんと一緒にいられました。お父さんはティムを連れて競馬に行くのです。それだけがティムの唯一の楽しみでしたが、12歳になった時、このお父さんも事故で亡くなってしまうのです。

 それからは一層義理の母と兄のいじめの中で息の詰まるような生活となりました。それでもティムがいじけずに育つ事ができたのは、彼が持っていた天性の笑いの故でした。つらい事があっても笑う事ができましたし、彼の笑い声は周囲の人皆を引き込む素晴らしい笑いだったのです。ですから家では暗い思いをしても、学校の先生や友だち、また近所の人たちとは明るく暮らす事ができたのです。

 ところがお父さんの葬儀の日、父を偲んで行った競馬場で一人の紳士と出会ってから次第に生活が狂って来ました。その紳士は実は悪魔でした。紳士は自分の商売を拡大するために少年の天性の笑いを取り上げようと計画したのです。言葉巧みに誘ったあげく、ティムと或る取引をすることに成功しました。それはどんな賭けにも勝てる力をやろうというものでした。そうしてティムの明るい笑いと引き換えに、どんな賭けにも勝てる力、つまり莫大な富を得る契約を結ばせるのです。

 お陰でティムは次々と競馬を当て、お金持ちになります。けれども富は幸せをもたらしませんでした。笑いを失ってしまった結果、陰気な子だと思われ、或いは高慢ちきな成金と陰口をたたかれ、友だちを失ってしまいます。それだけでなく、実際、笑うことができなくなって、彼自身何もかもがつまらない魅力のない人生となってしまったのでした。

 笑いこそは、人生に不可欠のものだとティムは悟りました。そこで意を決して家を出て、紳士を訪ねる旅に出かけるのです。何としても悪魔から「自分の笑い」を取り戻さねばなりませんでした。

 という訳で、この小説は悪魔たる紳士と「笑い」を取り返すためのティムとの、なかなかに壮絶な戦いが描かれています。最終的には途中で出会う親切な3人の友人の力を借りて笑いを取り返すことができるのですが、興味ある方は是非お読み下さい。

 さて、十字架上で無残にイエスを失ってしまった弟子たちは、どん底の状態に陥っていたことでしょう。彼らは直接主(あるじ)を売ったユダと変りありませんでした。「死んでもあなたのそばを離れません」と豪語したペトロを始め、皆が皆、失ってしまったものの大きさになす術を持っておりませんでした。笑いを失ってしまったティムのようにです。

 イエスのお墓にやって来たマグダラのマリアら婦人たちに天使が現れて、弟子たちへの伝言を伝えました。それは復活された主がガリラヤへ先に行かれるということ、そこで再会できるということでした。

 とても不思議なことですが、短いこの一段落の中で、天使が主の復活を告げ、今言いました弟子たちへの伝言を伝えたのに、その後すぐイエス本人が彼女たちに姿を表されて、もう一度「ガリラヤへ行くよう」弟子たちへの伝言を伝えられたと言うのです。

 弟子たちすべてが故郷ガリラヤに対して、良い思い出を持ってはいなかったでしょう。皆それぞれの生活を抱え、暗い思いを持って過ごしていたそれぞれの場所にイエスが現れ、彼らは一切を棄てて従ったのでした。今やそれさえも失った弟子たちにとって、ガリラヤは戻っても仕方ない場所でしかありませんでした。

 しかしイエスに従う生き方のその始まりのところへ、先にイエスが行かれ、そこで待っておられるという。とすれば、ガリラヤまでの道のりをたどる弟子たちにとって、それはまさに自分たちの原点を思い起こす旅であり、失ったものを取り戻す旅に他ならなかったでしょう。

 少年ティムは自分で笑いを取り戻す決意をなしました。しかし弟子たちは、イエスの墓を訪ねた婦人たちの報告を通し、主の言葉によって、原点を見つめる旅へと促されたのです。自分たちの裏切りによって、絶たれた絆でした。もう二度と戻らないと思われた関係でした。これからどうして良いか、自分たちには分からない事態の中にありました。そこへ「ガリラヤへ行くように」とのイエスの言葉が与えられたのです。

 弟子たちに先じて天使の言葉がかけられ、またイエス自身が姿を表された、その出来事に婦人たちはどう反応したでしょうか。8節に「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」とあります。また9節に「婦人たちは、近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」とあります。

 失ったものが予想もかけず再び現れる時、取り戻す事ができた時、私たちの反応はいかなるものでしょうか。少年ティムが悪魔から笑いを取り戻した時の光景がこう表現されています。「昔の笑いを取り戻したのではなかった。笑いがティムにとりついたのだ。待望の、何年も待っていた瞬間が、今やってきた。それなのに、ティムはその瞬間に圧倒されていた。ティムが笑っていたのではなかった。笑いがティムにとりついただけだった。ティムは幸運の手に引き渡されたのだった。」

 婦人たちが味わったのもこれと同じだったことでしょう。自分のものだと思っていたもの、自分のものだからこそ取り返そうと思っていたもの。でもそれは自分のものではなく与えられたに過ぎないものでした。ですから全く思いがけない瞬間がやって来たのです。婦人たちにかつてのものが戻ったのではありませんでした。かつてのものが、すなわちイエスが婦人たちに新たに取り付いたのでした。恐れと大いなる喜び。それが婦人たちの新しい命の始まりでした。

 同じように、ガリラヤへの旅は、弟子たちにとって、昔を取り戻すための旅路でありながら、同時にそれは彼らのもの、自分たちのものだと思っていたものが取り戻される旅ではなく、かつてのもの、つまりイエスが弟子たちに新たに取り付く事を知らされる旅路でした。弟子たちは、主が復活されたことを知らされると同時に、自分たちが新たにされた事を知らされたに違いないのです。

 主の復活は、ただイエス一人が復活された出来事ではありませんでした。イエスと共に、イエスが取り付いた婦人たちが、弟子たちが、そして十字架の出来事を知るすべての人々が、新たにされた、復活させられた出来事だったのです。皆さん、是非考えて見て下さい。仮にイエス一人だけが復活されたとして、それで復活の出来事に何の意味があったでしょうか。そうではなく、主と共に皆が復活させられた、失ったと思った一番大事なものを取り戻す事ができた、言わば世界がみな復活に預かった出来事だったのではないでしょうか。自分はこんな世界の片隅に小さくなって、おおかたの人からも覚えられず忘れ去られて生きている。そんな少々いじけた思い込みが一変されたのです。こんな世界の片隅が、神に忘れられず覚えられ、光を当てられ、再び歩み始めることができる、それが復活の出来事でした。

 ですから今日、私たち共々に喜びたいと思うのです。イースターはキリスト教という一宗教の教祖のためのお祭りなどではないのです。失ってしまった、自ら切り捨ててしまった、もう二度と取り戻せないと思っていたものが、もう一度与えられ、自分の力ではなく神によって取り付かれ、新たにされたことを私たち自身が喜ぶ日なのです。聖書に書かれている人たちだけが味わった出来事ではないのです。そこに他でもない私自身、あなた自身が含まれているのです。

 身体だけではその喜びを表現することができません。少年ティムが失った笑いは、内面を自由にするものでした。主の復活は私たちの内面を解放し、自由へ導くものです。その復活に私たち自身が招かれたのです。恐れながら、大いに喜んだ婦人たちには身体だけでは表現できないものが立ち上っていたことでしょう。

 最後に、ガリラヤのイェシューでは、8節以降が次のように訳されています。

 女子衆(おなごしゅう)は一旦は恐ろしさに震え上がったものの、躍り上がらんばかりに喜んで、急いでお墓を後にし、いっときも早く弟子たちに知らせんものと走りに走った。

 するとご覧あれ、イェシューさまがいきなりその行く手にお立ちになって、あのいつもの底抜けに朗らかなお声をかけなさったのでござる。

「やあ、お前たち、喜べ、喜べ、喜べ!」

女子衆(おなごしゅう)は、アッと驚き、無我夢中にて、そのままワラワラとおそばに走り寄り、み前にガバと膝をつき、ヒシとばかりにみ足をかき抱き申した。

 イェシューさまは言いなさった。

「さあ、怖がっているのはもうやめろ。行って、弟どもにガリラヤへ行けと言え。そこで会おう!」


天の神様、救い主と共に私たちも復活の出来事へ招いて下さり、新たにして下さったことを感謝します。私たち様々なこの世の出来事に翻弄されていますが、なお喜びと希望にあふれて、共に生きて行きたい、そしてあなたに仕えて行きたいと思います。どうぞ、この新たな一年を固く守り導いて下さい。





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