東神戸教会
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メッセージ

20170507 『 イエス。正すクリニック 』 ヨハネによる福音書 6:34~40

 ある方がこんなことを話しておられました。その一部を紹介します。
「人生にとって、一番大事なのは、目に見えないものですよ。心は目に見えないし、神も仏も目に見えません。だけど、その目に見えないものが、人生を本当に左右させるんです。
 戦後の日本人は、金や物といった目に見えるものばかりを大事にしてきました。外国人がびっくりするほど勤勉に、もとにあったものを取り戻そうとしました。
 お茶碗一つ取り返したら、今度はお盆が欲しい。その次は机も欲しい。着るものがあったら、次は飾る宝石が欲しい。その情熱によって、何もなかった日本は世界で有数の経済国になったでしょう。
 でもその時心はどうだったのでしょう。幸福を守るのはお金ではなく目に見えないものなのに、それをどう扱って来たか。
 だからこそ、今最もおろそかにしてはならないのは心です。祈りです。そして知識ではなく、人に優しく振る舞い、困っている人たちを助けようとする知恵です。」
 どこかの牧師の話のようですが、実はこれ、瀬戸内寂聴さんです。全く私たちにもよく分かる話です。東日本大震災の被害を通して、これから私たちは引き算でモノを考えて行かねばならない、という意見を述べた方もおられました。実行はいかほどかともかく、「断捨離」という言葉もすっかり定着しています。不要なものを捨てて、生き方をシンプルにしょう、わかっちゃいるけどなかなかね、です。
戦後の日本は、確かに足し算ばかりで生きて来たのでしょう。一つ得ると、更にまた次の一つを目指して来ました。がむしゃらに、或いは懸命に汗を流して来た事を容易く批判はできませんが、その生き方で見失ったり、忘れてしまったものがあったのは確かです。引き算で生きるとは、余分に持っているものをそぎ落として、本当に必要なものは何なのか、を考える生き方であるのでしょう。
 今日与えられたテキスト、冒頭の34節に、そこで彼らが「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と言うと、ありました。この彼らとは、一体誰でしょうか?これ6章最初からの記事に引き続く出来事です。最初にイエスが5つのパンと2匹の魚を5000人に分け与えられた有名な出来事があったのです。これはすべての福音書が記録している出来事ですが、ヨハネ福音書だけが、この出来事に感激した群集が、イエスを王にするために連れて行こうとした、そしてイエスはそれを避けて一人山へ退かれたことを付け加えているのです。
 一つ別の出来事を挟んで、6章22節、その翌日とあります。5000人の給食の奇跡が行われた翌日ということです。イエスを王にしたいという群集の感激は、翌日まで消えずに続いたのでした。それで彼らはあちこちイエスを探し回り、舟に乗って追いかけて来たという訳です。その彼らに向かって、イエスは「はっきり言っておく」と強い口調で話し出されました。26節です。「あなたがたが私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」こう言われたのです。続けて「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と語られました。先週のテキストにおいても、しるしということが描かれていました。そこでは、イエスはヨナと南の女王の生き方をしるしとして挙げました。それは生き方を変えるということでした。
今日のテキストではイエスはモーセについて語りました。えないものを見つめるということでした。
 かつてモーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民たち。その旅路において色々な困難が待ち受けておりました。そのたびに民たちは不満をモーセにぶつけ続けましたが、いつも神さまの力によって守られ、導かれたのでした。その一つの出来事が天から与えられたマンナでした。出エジプト記の16章に記されています。
 食べ物がなくなってたちまち困り果ててしまい、この時もモーセに「これでは、エジプトにいた方がマシだった」と民たちは不平を言い募ったのです。この時神さまがマンナと呼ばれるパンを天から降らせられました。それも毎日です。それを一人1オメルずつ集めるようにモーセを通して指示されました。1オメルとは約2.3リットルという量です。それは民たちをその日一日生かすに必要にして十分な量でした。
 この出来事は後のイスラエルの民にとって、神さまの守りと恵みの象徴として忘れることができないものとして語り続けられたのです。ですがこの時、毎日パンを与えられながら、中にはこっそり余分に集めた者がおりました。次の日の食べ物を心配して、隠しておいた者もおりました。それらは結局次の日には腐ってしまったのです。
 もちろん、この話は神が行われた出来事です。が、神さまの指示を聞かなかった者もいたということを忘れてしまっておりました。神さまがなさったということも忘れて、まるでモーセがなしたことと受け取る者もおりました。
 ですから、32節、イエスは再び「はっきり言っておく」、と口調を強めて、「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、私の父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そう語られたのでした。ここで言う神のパンとは、言うまでもなくしるしとしてのパンのことを指しているのであって、現実のパンでは決してありませんでした。
 長らく背景を説明して来ましたが、ここでやっと今日のテキスト冒頭の34節に繋がるのです。今説明しましたイエスの言葉を聞いて、群集たちが答えたのです。「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と。
 いかがでしょうか、皆さん。この群集の言葉を聞いて、彼らがイエスが懸命に語られた言葉の意味を、間違えず受け取ったと思われますか?彼らの願いそのものは、間違ってはいないと思います。或る意味当然の願いとも言えます。けれども、その受け取りの内容は、甚だ誤解に基づくものでした。実は33節のイエスの言葉は、原文に忠実に訳するなら、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えつつある」というものでした。ですからよく聞いていたなら本来ここで、神のパンが何を指すのか何となく分かっても良さそうな言葉であったのです。
 でも、群集たちには、それは「いつも」欲しい現物であり、「量」であったのです。つまりイエスの言葉が分からなかった。それでイエスはもう一度答えざるを得なかった。35節、「わたしが命のパンである」と。悲しいかな、この無理解は昔も今も変わりません。群集たちだけではないのです。今必要でない、つい余分までを求めてしまう、足し算の生き方をなかなか捨てきれない私たちです。イエスが弟子たちの足を洗われた洗足の出来事を思い出します。あの時、ペトロは言いました。「主よ、足だけでなく、手も頭も」と。
 やなせたかしさんが作詞したアニメ・アンパンマンの挿入歌の中に、ジャムおじさんがパンを作る時の歌があります。いずみたくさんの作曲です。
 「おいしいパンを作ろう。生きてるパンを作ろう。いのちがけでつくろう。命のパンを」という歌詞です。まるでクリスチャンが作ったかのような歌詞です。でも実際、神は、実にいのちをかけてイエスという名の命のパンを作られ、私たちに与えて下さったのです。
 私たち、あれもこれもと彷徨い求めている時には分かりませんが、余分をそぎ落とし、どうしても必要なものは何かを考える時、見えてくるものがあります。それ故にイエスは妥協せず語ります。「はっきり言っておく」。相手におもねいたりはしません。断固、正すのです。でもそれはかえって真の癒しとなって返るのです。


天の神さま、必要なものを日々十分に与えて下さり感謝します。主は確かに私たちを正されます。それが癒しです。どうぞ私たちをしっかりと導き、あなたの愛に確かに応える者とならせて下さい。



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