東神戸教会
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メッセージ

20160731 『今度こそチェンジ』 ヨハネによる福音書 7:1~9

  「チェンジ」というテレビドラマがありました。ご覧にならなかった方も、人気俳優の木村拓也が総理大臣になったドラマと聞かれたことがあるのではないでしょうか。

 キムタク扮する主人公が二世とは言え、政治に関して全くの素人だったのに議員に当選し、様々な政界の駆け引きの中で大抜擢で総理大臣になるのです。懸命に頑張ります。でも素人の悲しさ、老練な政治家たちに振り回され、遂に辞任を決意するところに追い込まれるのです。まあ、現実にはあり得ません。余りにも格好よすぎるキムタク総理大臣でした。いかにも荒唐無稽な話です。

でも、最終回ではおよそ20分もの時間を取って、辞任を前に直接国民に訴えるシーンがあって結構受けたようです。それは政治家が使いがちな業界用語を用いず、稚拙ではあっても自分の言葉で切々と語ったからです。粛々と進めますだの、もののふの覚悟だの、よく聞かされる単語は、大体一般人とは乖離したものばかりですから、分かる言葉で、分かる論理で、駆け引き抜きで語るという手法は、ドラマとは言え、とても斬新なシーンでした。


さて今日与えられたテキストは、おもしろい箇所です。イエスのところに兄弟たちがやって来て注文をつける箇所でした。3節から5節にこうあります。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、密かに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

ここを去ってとは、イエスの故郷ガリラヤ地方の事を指しています。2節にあるように、ちょうど秋の収穫の祭りである仮庵祭が近くなっていました。ですからユダヤに行きとは、仮庵祭の行われるエルサレムの事を意味しています。
1節に書かれていますが、既に一部のユダヤ人たちから命を狙われていたイエスは、この時はまだ十字架の時でないとして、エルサレムに近づかず、彼らを避けてガリラヤに留まっていたのです。
けれども、その行動は、イエスの兄弟たちからは理解されず、かえってお忍びのような卑屈な印象を持たれることとなりました。これもテレビの話ですが、NHK朝ドラで「瞳」というのがありました。主人公の瞳は、ダンスをしながら、おじいさんと一緒に里親として頑張るという筋書きです、ダンスをすること、踊りを踊るということを認めない人たちが登場するのです。そんなものは単なる遊びに過ぎないという訳です。いい年をした大人が踊りに興じるなんて、世間体が悪いと言うのです。

面白いと言ったのはそのことです。イエスも私たちが味わう普通の卑近な出来事を味わわれたのです。とりわけ家族に関しては立場がなかったのです。ようはイエスの存在は家族にとって世間体が悪かった。
しかも、兄弟たちが言っている事の方がこの世の理に適っています。誰だって、家族や身内が、或る日突然それまでの職業を棄てて、神さまの福音伝道に出ると言ったらどうでしょうか。また実際にそれを始めて、自分の知らない訳の分からない連中を引き連れて、全国を旅し始めたらどうでしょうか。もちろんお金儲けが出来る訳はありません。地位が高くなる訳もありません。まさに世間の笑いもの、家族は身を小さくして恥ずかしさに耐えねばならないのです。その意味で、「もしこのまま続けるのであれば、隠れるようなことをしないで、堂々とやりなさい。ちょうど仮庵祭で、たくさんの人が集まっているエルサレムで行って見なさい。」そう語ったのも分かる気がします。そこには、もしそれで認められるなら、それはそれでせめてもの意味があると譲歩したのでしょう。

けれども、どんなにその方が世間一般の常識ではあっても、それは自分自身で考えた、自分の言葉ではありませんでした。あくまでも世間体を慮った事ゆえの物言いであり、イエスの言動についてよく考える事をしなかったのはもちろん、ですから何も信じていなかったのです。

私たちもしばしば、この兄弟たちのような物言いをすることがあります。大体のことは世間の側につく方が力になりますし、安心でもあります。しかし一方で、世間に埋没し、本当に正しいことから離れる危険性をも持ってしまうのです。それが自分の言葉で語らないことの怖さなのです。忘れてはなりません。

フランクルと言う人が「我々が人生の意味を問うのではなくて、我々自身が問われた者として体験されるのである。人生は我々に毎日毎時間問いを提出し、我々はその問いに、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである」と述べました。
この出来事は何なのか。人生っていったいどういうことなんだろう。神さまって何者なのだろう。私たちは様々な問いかけをしながら人生を生きています。けれど、フランクルの言うように、本当は私たちが問うのではなく、実は私たちが問われながら生きているのではないでしょうか。問われている者として応答しなければならないのではないでしょうか。自分が問うている間は、しばしばその課題や問題の第三者、傍観者になっていることが多いように思います。すなわち、自分の言葉で考えず語らず、世間の言葉で考え語っているのです。

イエスはこの、兄弟たちからの冷たい批判に「私の時はまだ来ていない」という返事を二度しました。「私の時」という言葉を、兄弟たちは多分理解することができなかったでしょう。けれども、「あなたがたの時はいつも備えられている」という言葉は、とても重要な意味を持っておりました。身内である兄弟たちから理解も愛もない非難を浴びて、通常なら泣いたりごねたり、時には縁を切ったりしてしまうような状況です。
でもイエスはそう言われなかった。ここで時と使われている単語は、カイロスすなわち神さまの時間という言葉です。十字架上の死を覚悟し、受け入れられていたイエスは、ご自分に対する神さまの時間はまだなのだと言われました。けれども兄弟たちには同じ神さまの時間がいつも備えられている、用意されていると語られたのです。それは言わば、自分で考え、自分の言葉で語る時が与えられているという祈りと愛に満ちた返答でした。
フランクルはこうも述べています。「人生と言うのは、結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の勤めを行うことに対する責任を担うことに他ならないのである」と。
人生の意味の問題に正しく答えること。人生が各人に課する使命を果たすこと。日々の勤めを行うことに対する責任を担うこと。これらは何も取り立てて立派な言動をすることでも、賢い言動をなすことでもないのです。どんなに幼くて足りなくてもいい。それぞれの人生の中で、それぞれが借り物ではなく自分自身の考えと言葉で人生を受け取り、それを逃げ出さずにしかと持つ事を指すのです。私が問うのではなく、私は問われる者であるからです。
「あなたがたの時はいつも備えられている」とは、問われている者として生きてゆくことへの転換を意味していたと思います。チェンジ、です。
アメリカのオバマ大統領はかつて選挙戦で繰り返し「チェンジ」という言葉を用いました。変わろう、変えようという呼びかけでした。残念ながらキムタク総理大臣と同様、現実には大きく変わることはできませんでした。先の参議院選挙結果も同じでした。しかし終わりではありません。私たちはクロノス、人間の、自分の時間を生きているようでいて、本当は神さまの時間、カイロスの上を歩んでいるからです。

私たちは、神さまからいつも神さまの時を用意されているのです。いつでも変わろう、変えよう、変われるよ、という促しを受けているのです。私が問うのではなく、私が問われています。この事に気づくこと、これぞ信仰によるチェンジ、悔い改めと言うのです。


天の神さま、あなたから問われている者として、あなたに向うことができますように。


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