東神戸教会
〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11
TEL & FAX (078)851-4334
 
Topページへ戻る
教会の紹介
礼拝のご案内
集会・活動
行事のご案内
メッセージ
牧師のページ
東神戸教会への行き方
HOME > メッセージ > メッセージ全文
メッセージ

20160807 『ようこそ!君は礼拝のある星に生まれた。』 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:1~9

 何年か前の夏、大阪の浪花教会の礼拝に出席したことがあります。浪花教会は、関西労働者伝道委員会の会場をいつも提供して下さっている教会です。創立1877年で、来年140周年を迎えるそうです。ヴォーリズ設計の格調高い礼拝堂です。正確に言うとヴォーリズの弟子の設計です。修復工事をして、床がきれいになりましたし、空調も良くなりました。音響も優れています。パイプオルガンがよく響きます。

 素晴らしい教会だと思います。でも、場所は淀屋橋ですから、普段はビジネスマンであふれている界隈も日曜はガラガラなのです。礼拝出席は20人くらいで、大きな礼拝堂にまばらに座っている状態でした。何だか大変もったいない気がしてなりませんでした。しかも帰りに梅田に来ると、そこは多くの人々で賑わっていましたので、なおさら寂しい気持ちになりました。

 浪花教会が何もせず手をこまねいてる訳では、決してありません。多くの働きを担っておられます。ビジネスマン向けの集会やコンサートなども頻繁に開いておられます。
どこの教会でもいろいろ手を尽くしている訳ですが、なかなか効果がありません。もちろんそれはわが東神戸教会とて同じことで、ついため息をついてしまう現状が続いています。

 姜尚中さんが「無駄なことしてみよう」という文章を書かれていました。小さい頃から私たちは役に立つことをするために、無駄なことを極力しないようトレーニングされて来た、と。しかしそういう学び方は、そろそろ限界に来ている。今何を学ぶべきかと言えば、宗教と政治だ、と姜さんは言われるのです。教会が怠けているのではなく、社会の流れがある訳です。負けたくないですが、現状は受け入れざるを得ません。

 さて、今日読みましたコリントの信徒への手紙、パウロが書いた書簡です。今の私たち同様に当時のコリントの教会もたくさんの問題を抱えていました。内部紛争があり、道徳の乱れがあり、集会の在り方への論争があり、これでもかというほどの混乱が起きていました。今日のテキストはそれらの問題のうち、指導者の争いについてでした。一体パウロにつくのか、アポロにつくのか、ということです。
 人間が集まるところ、組織というところでは、どうしても問題が起きます。それは避けがたい現実です。と端的に言ってしまえば、それはその通りです。教会とて例外ではありません。例外ではない、と期待した人は、この現実に嫌気がさして教会を去ってしまうということも、残念ながら起こります。もし事前に知っていたら、教会なんか来なかったよ、という人もいるかもしれません。
 姜さんの文章で言うならば、これらの問題はすべて無駄なものなのでしょう。教会に何の問題もないことは理想的ですし、余分なことで神経を使うことは信仰とは関係のないことです。どう考えても問題がない方が良いに決まっています。

 しかし、コリントの教会で現に問題が起きてしまいました。それも幾つもの問題です。
これらについて、パウロは一つ一つをどう解決すべきかアドヴァイスするためにこの書簡を書いたのではありませんでした。なぜなら、教会は、神さまのものだからです。でもそこに集うのは人間で、そして人間が乱れた状態を作ってしまうことがある。事実コリントの教会でそうなりました。
それに対してパウロは、教会の本質を語ることによって、一人一人が神さまから招かれていることをもう一度明らかにしようとしたのです。「大切なのは、植える者でも水を注ぐものでもなく、成長させてくださる神です」と明言しました。教会は神さまのもの、主権は神さまにだけにあるのです。弱さ、愚かさ、醜さを抱えている私たちにも関わらず、なお招き、なお用いて下さる神さまにこそ、すべての主権があるのです。
4年前8月2日の新聞に娘が書いた投書が掲載されました。親バカかもしれませんが、良い文章だと思いましたので、紹介させていただきます。

「連載・いじめられている君へ、を読んでいる。筆者は作家やスポーツ選手、芸能人、学者・評論家など社会的に活躍されている有名な方ばかりだ。そうした方がいじめられている子どもたちへ送る声に、私は違和感を覚えた。
筆者の多くは、「自分もいじめられた。だがそれを乗り越え、今の地位を築いた。だから君たちも頑張れ」と解釈できるエールを送っておられる。ある作家は「夢中になれるものを見つけて、自分の心を豊かに強く保ってほしい」とおっしゃっている。
確かにこうしたエール正面から受け止め、いじめを跳ね返す子も出るだろう。しかしここで述べられているのは、あくまで少数の成功例に過ぎない。
かつていじめを受けた大人で、これらの筆者のように強い心を持つようになった人はむしろ少数ではないだろうか。多くは成人になっても強い心を保つことができないままでいる。
今、いじめられている子どもに必要なのは、決してエールではない。「助けて」というSOSに気づき、そのSOSを受け止めてあげられる人を配置することなのではないかと思う。そういう人がいないから、いじめられている子は苦しんでいるのではないだろうか。」
こういうものです。娘は中学時代にひどいいじめに遭いました。私たちは何もしてやれませんでした。そして遂に彼女は親戚の家に逃げました。多分、傷を負ったまま歩んで来たのでしょう。だからこそ、このような文章を書いたのです。本質を身をもって学んだ体験を通して書いたのです。

パウロは、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と語りました。彼はかつて神を自分の畑、自分の建物としていました。違う考えの者をそれ故に裁き、責め、追いやりました。そのパウロを神さまは招いて下さったのです。本質を語ること、語り続けること、これが信仰の源であることをパウロは身をもって確信しました。
私たちは時々「心を一つし、思いを一つにして、信仰生活を歩めるようにと、お祈りします。何も間違ってはおりません。パウロもこのコリント書の1章でこう勧めています。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」。
ただ、パウロのこのお勧めは、すべて招いて下さったのは神さまであり、私たちは神さまの畑、建物である」ことの確信に基づくものであるのです。その逆はパウロ自身がつまづいた逆の世界でありました。心を一つに、思いを一つにとは、同じ考えになること、同じことをなすことではないのです。違う思いがあり、違うやり方があることを受け入れるという意味において心と思いを一つにするのです。それが招いて下さった神のみ心だからです。
私たちにも問題はたくさん与えられています。私たちの努力によって解決可能な問題もあれば、相当に困難な問題もあるでしょう。忘れたくないのは、いずれにしても私たちは、神さまのために力を合わせて働く者である、ということです。傍観者としてエールを送っても、力には成り得ないのです。神さまは私たちを傍観者ではなく、当事者として招いて下さいました。

ある牧師は、今さまざまある問題、なかでも差別に関する問題は、信仰を通して神に委ねなければ絶対に解決しないと、とある集会で語りました。
私はそれは間違いであり、偽りだと思っています。神さまを都合の良い道具にしてはなりません。間違えてはならないのです。神さまが私たちを用いられるのです。平和の器として。実際に担う者として。

礼拝は、そのことを繰り返し確認する場です。当事者として向かい合う時、無駄はきっと無駄ではなくなるでしょう。またより大切なものが見えてくるでしょう。礼拝は、神さまから差し伸べられている一つの大きな救いの手です。元気な時はもちろん、私たちが泣いている時、呻いている時、傷つき絶望している時、そのすべての時、実は神さまから差し伸べられている手があるのです。その手を握って励まされ、癒され、また送り出されるのです。それを覚えるのが、それを確認するのが、礼拝です。ようこそ!私たちは礼拝のある星に生まれました。

神様、礼拝に招かれ、礼拝を通して、あなたの愛を教えられます。感謝です。どうぞ、この恵みを繰り返し覚える者として下さい。そしてこの社会であなたのために働く一人として下さい。

 日本基督教団 東神戸教会 〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.