東神戸教会
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メッセージ

20160814  信徒奨励 大澤 瞳さん 『立ち止まってみる』 マタイによる福音書 18:1~6

 東神戸教会に通い始めて、早いもので4年目になりました。大澤瞳です。自己紹介はお話の中で追々していきたいと思います。
 さて私は、昨年の夏、社会福祉士という国家資格の受験に必要な実習に、一か月ほど行っていました。その際には、たくさんの方々にお祈りいただきまして、体調を崩すことも無く学ぶことができ、感謝しております。私が実習を受け入れていただいた、児童養護施設の会議室の壁に、ある言葉が掛けられていました。
『乳児はしっかり肌を離すな・幼児は肌を離せ、手を離すな・少年は手を離せ、目を離すな・青年は目を離せ、心を離すな』
 これは、山口県のある教育者が提唱した、『子育て四訓』だそうです。赤ちゃんが、成長とともに自己決定を行うようになり、自立への道を歩んでいくその過程を、どのように見守り、支えていくか、子どもとの距離感を表しているといえるでしょう。もちろん十人の子どもがいれば、十通りの育ち方があり、それぞれの子どもの個性がありますので、全ての子どもが同じ成長段階をたどっていくわけではありません。しかし、私はこの言葉の、どこか安心感を覚える距離の表現に心惹かれました。
 私は牧師家庭に生まれ、生まれる前から教会に通っておりました。教会の方々に可愛がっていただき、人見知りをしなかった私は、一体誰が抱っこしているのか、教会の中で見失うことも多かったと、よく両親は笑って話しておりました。毎週日曜日のCSの礼拝、分級、夏休みのキャンプ等、本当にたくさん遊び、怒られ褒められ過ごしてきました。私たちは「大人の礼拝」と呼んでいましたが、主日礼拝中に幼稚園の園庭で、自分よりも年下の子どもたちと大縄跳びをしていたとき、大きな声で「1,2,3」とカウントする私たちの声が礼拝堂に響いていたと、礼拝後笑われたこともありました。高校進学の際、新潟県にあります敬和学園高校に行きたいと私が言い始めたのは、中学三年生の夏休みを終えてから、いよいよ受験勉強も本番という頃でした。突然の進路変更、受験、そして引っ越しと、慌ただしく準備をすすめる私を、教会のみなさまはいつも励ましてくださいました。
 自分の生い立ちを振り返るとき、さきほどの『子育て四訓』は、自分と両親との距離感だけではなく、教会と自分の距離感に置き換えることもできると感じるのです。東神戸教会にも、今までたくさんの子どもが通い育ち、この教会を支えてこられたこと、また各地へ巣立って行かれたことを、みなさまのお話の中からうかがうことができます。今も、多くの子どもたちが教会につながり、私たちにたくさんの元気をくれています。子どもの笑い声が、日曜日に響いている教会です。しかし、子どもにも子どもの生活があり、教会との距離感は変化していくものです。学年があがるにつれて部活動で忙しくなったり、受験を控えていたり、別の地へと引っ越してしまったなど。かつて毎週教会に通っていた子どもたちが成長し、それぞれの道へと進んでいくとき、さきほどの『子育て四訓』にありました、「目を離せ、心を離すな」が大切なのではないかと思うのです。私が敬和学園に進学したとき、教会の方々が心でつながってくださっていたこと、そして覚え祈っていただいていたことに触れ、教会が自分にとって本当に暖かい場所であったと気づくきっかけになったと、今、感じています。

 先ほど申しました実習を行う前の約半年間、教授と個別に準備を行う「実習指導」という授業がありました。私はこの授業で、教授にある質問をされました。「最近、心と体の全てを集中させて、見たもの、食べたもの、触ったものは何ですか」と。「そんな時間はありません。」と言ってしまいそうなほど(実際は言いませんでしたが)、日々アルバイトと、学校の往復で慌ただしく過ごしておりましたので、私はその質問に答えることはできませんでした。その後、「では、やってみましょう」と言われ、お茶を飲んだのです。まず、目をつぶって、お茶の匂いを嗅ぐ。ゆっくり口に含み、お茶がのどを通るのに意識を集中させて飲み込みます。「ゴクン」と音をならしてお茶を飲みこんだとき、確かにお茶が体の中に入っていく感覚をいつも以上に強く感じましたが、毎回こんなお茶の飲み方できないわ~と、正直思いました。しかし、教授は私にこう言ったのです。「実習中、子どもたちと関わるとき、この感覚を忘れてはいけません。」
 みなさんも「あぁ、あるある」と思われるかもしれませんが、例えば、小学生が学校の通学路で、テントウムシを見つけたとします。テントウムシで無くても、ご自分のお好きな虫に置き換えていただいてかまいません。その小さな小さな存在にぐっと興味を引き込まれ、じっと見つめて立ち止まっている。その後、ゆっくりゆっくり動き出したその虫の行き先が気になって目が離せなくなる。そのときの子どもというのは、これからの予定や、時間を忘れ、目の前の存在を全身をつかって見つめているといえるでしょう。もし、今、私たちがその状況に遭遇した場合、どうするでしょうか。テントウムシに立ち止まることすら、まずありえないでしょう。また、虫のゆっくり歩く姿をじっと見つめているとじれったさを覚えるかもしれません。私たちが生きる社会は、いかに早く、かっこよく、社会的地位を獲得し、どれだけ偉大なことを成し遂げるか、このようなことに価値を見出しています。まるで何かに追われているように、すたすたと歩き続けています。競争社会の中で、誰かと比べ、競い合うことを、私たちは子ども時代考えたことがあったでしょうか。この子どもの行為は、「寄り道」と一言で表されてしまいますが、子どもと向き合うとき、また私たちが自分自身と向き合うとき、忘れがちになってしまうこの感覚はとても大切なものなのだそうです。先ほど私が教授に質問されたときに考えていた言い訳、「日々のアルバイトと学校の往復で慌ただしく、そんなことする時間がない」という状況は決して嘘ではありませんでした。しかし、その状況の中で、自分自身の心がどこかに置き去りになってしまい、心ここにあらず、次の予定や、迫りくる時間にばかり気を取られ、ただこなす暮らしになってしまっていたということなのです。
 しかしながら、よくよく考えてみると、私には心と体の全てをつかって過ごす場所があることに気づかされます。私たちは教会に集い礼拝をまもるとき、それぞれに気持ちを抱えていることと思います。時には、悲しみ、悔しさ、寂しさ。また時には、嬉しさ、わくわく。日々の暮らしの中で様々な気持ちを抱え、教会に集ってきます。私は教会に通い続けて22年ですが、兄弟けんかをしていらいらしていたり、翌日に試験を控えてそわそわしていたり、その時々の多くの感情を抱えて日曜日を迎えています。しかし、礼拝をまもるときはどうでしょうか。オルガンやピアノの音色に耳をすませ、心を落ち着かせ祈り、聖書のみ言葉を聞き、讃美歌を歌うとき、私たちがそれぞれに抱えている感情を委ね、力んでいた体を休ませることができる時間となっているのではないでしょうか。そのときの私たちは、全身をつかって神様に向き合っているといえるのではないかと思うのです。
イエス様は、誰が一番偉いか、権力があるかと尋ねた弟子たちに、天の国は子どもたちのようなものに開かれているとおっしゃいます。そして、子どもたちのように自分を低くすることを教えてくださいます。礼拝に集う私たちは、知らずしらずのうちに、子どもたちが全身をつかって世界を見ているような、そんな感覚に戻っているのではないでしょうか。目まぐるしく流れゆく日常から一度立ち止まり、子どものようなまなざしで神様を感じて触れているのではないでしょうか。
 ついつい立ち止まることを怖れてしまう、そんな世の中です。何かに置いていかれてしまうのではないかと不安になることもあります。しかし、本当に大切なものは何か、心で見つめ、子どもが見つけるテントウムシのような、そんな小さな存在に立ち止まってみる勇気を忘れずにいたいと思います。


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