東神戸教会
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メッセージ

20160828 信徒奨励 今村徹さん 『 振り返るとそこに 』 使徒言行録 2:1〜11

お早うございます。
今村幸子の旦那の、徹です。

1年前、この場に幸子が立って信徒奨励のメッセージを伝えていた時には、まさか自分が洗礼を受けてこうしてこちら側に立っていようとは1ミリも思っていませんでした。

その時幸子は『愛に生かされ 愛に生きる』というタイトルでキリスト教とヨーガの教えの根底にある世界観についてという壮大なお話をしており、その深い理解に感心していたのが私でした。
(ちなみに幸子のメッセージは東神戸教会のホームページにも掲載していますのでよければ読んでみて下さい。)

さて、そんな幸子と結婚してから7年になります。それは私が教会生活を続けてきた年月でもあります。
結婚をするにあたって、当時彼女が通っていた大阪の淀屋橋にある浪花教会で挙式するということで私も礼拝に通い始めました。
浪花教会はヴォーリズの指導により設計された教会堂を持つ、設立から100年以上の歴史のある教会です。少し前の説教で取り上げられましたね。
当時の牧師は村山先生で、横山先生の飲み友達でもあるようです。

結婚準備のため村山先生によるカウンセリングを受けることになります。キリスト教における結婚の意味とは、といった話です。2009年の事になります。

結婚とは半分は神による導き、半分は自分たちによるものなので、もし結婚生活が上手くいかなくなったらその半分は神様のせいだと思ったらいいよと言われ、なんてラフなことを言うんだろうと笑ってしまったことを覚えています。

私のキリスト教との関わりはここから始まりましたが、当時は礼拝に行っても全くと言っていいほど村山先生の伝える、聖書の言葉がどういうことなのか分かりませんでした。神様の前で愛を誓ったわけですが、その神様って何?みたいな。
当時は、神様というのは信じる人達によって作り出された幻想のようなものなのかな、といった事も思っていました。
しかし、その一方で皆で歌う賛美歌や、牧師による派遣・祝祷に気持ちを新たにさせてもらっていたように思います。

礼拝に通う一方で、結婚した当初からお互いが亡くなった時にどうするかという問題が常にありました。幸子は間違いなくクリスチャンでしたが、私は家が仏教でしたのでそれぞれ別のお墓に入るということになります。
あ、お墓はいらないって言ってましたね。
私はというと、お寺さんから仏教の教えを学ぶ事も無かったので、仏教徒という意識はありませんでしたが、その一方で教会に通ってはいても聖書の言葉を心から信じられもせずクリスチャンというわけでもないしなぁいう感じでどうにも決められませんでした。

結婚して神戸の社宅に移るのですが、週末に淀屋橋まで出るのも大変なので、幸子がここ東神戸教会へ転会する事になり、私もこちらの教会の交わりに入れさせていただく事になりました。
今度は川上先生の説教を聞くようになるわけですが、いまひとつ聖書の言葉が入ってこない、という事が続きます。
そう、話が入ってこないと今度は眠りに入ってしまうんですよね。で、司会の方が「お立ちいただける方はお立ち頂き、賛美歌21の何番を」と言うところでまた正気に戻るんですよね。
はて何の話をしていたかな、という何とも失礼なことがしばしばありました。

けれどもそんな中で、幾つか印象に残る言葉も与えられました。
一つは、“神は乗り越えられない試練は与えない”という言葉です。
これは中国に赴任する前に聞いたのですが、赴任中も困難だと思う場面でたびたび思い出し、もう少し頑張ってみよう、と思えたものです。
また一つには“人は神の前で、神と共に、神無しで生きる”という言葉でした。
ユダヤ人で、アウシュビッツを生き抜いたボンフェッファーの言葉です。
東日本大震災の後、沈み込みたくなる気持ちの中で、生きることへの決意を新たにさせてくれるように感じました。

このように、礼拝に通う中で少しずつ、少しずつ言葉が染み込んでいったように思います。

川上先生が異動することになり、幸子から受洗しないかと問われたことがあるのですが、その時にはまだ決められませんでした。まだ戸惑いがあったのです。

それは、この7年の間に出会ったヨガの学びにまつわることです。私たち夫婦はそれぞれスキーや山登りなど、体を動かすことに親しみを覚えていたので、最初は体のメンテナンスの意味合いで始めました。
 ヨガの学びを続ける中で、伝統的なヨガの教えであるインドのヴェーダという、聖典についての学びをするようになります。これは、一言で言ってしまうと私たちの存在を支える背後にあるものについての知識、と言えます。
 この学びはとても興味深く、教会に通いながらもさらにヨガの勉強を深めたいと思うようになります。しかしその一方でヨーガの教えはヒンズー教との結び付きが強く、ヨガの勉強をする事と教会で聖書に学び祈る事はなにか別物のように感じていました。

このヨガの学びを深めたいという思いが叶ったのが、昨年訪れたインドでのことです。
約1週間ほどのプログラムでしたが、海とココナッツの森に囲まれた南インドの心地よいホテルで、ヨガ哲学を集中して学び、瞑想を通じて定着させることができたのです。
そして、古くから続く寺院での祈りの場にも立ち会うことができました。
インドの人たちが、本当に熱心にお祈りをしているのです。
その祈りのエネルギーに圧倒されそうになると共に、自分もこうやって祈りを捧げるものでありたいと思ったのです。

ヨガでの学びを一言でいうとするならば、自分自身がすでに愛そのものであることに気がつくための練習と言えます。
人は自然に傾きやすい傾向として、自分は幸せではないと考えがちですが、そうではないのだと教えるのです。
そして、神様の意にそう事をこそ行うべきだと説くんですね。

聖書における罪が、神様の意に沿わないことをすることだ、聞いた時にこのコンセプトは、聖書が伝えることにも通じる事だということが確信になったんです。
であるならば、ヴェーダの学びはクリスチャンになり生活の中で祈りを捧げることと何ら矛盾することではなく、むしろ理解を助けるものだと思えるようになったんです。

さて、それから受洗を決心するまでに最後の一押しとなる事がありました。義理の父親を見送る、という出来事です。お義父さんには結婚してからよくお世話になっていたのですが、癌が分かったのが去年の2月頃でした。
それから、何度かの入退院と義母や幸子の働きで自宅での療養の生活をしていました。
私自身は病院へのお見舞いや家族での集まりで会っていたのですが、会うたびに痩せていき、それでもなお気丈な様で振る舞う様子に何とも悲しい気持ちになっていました。
 インドの旅から帰ってみると、病状は急速に悪化して、自分で立つこともままならない様子になっていました。
その頃には、幸子も家と実家を頻繁に行き来して、家族で義父を支える生活でした。
年が暮れ、紅白歌合戦が始まる頃に意識が遠のいてきたために、病院に移り、年が明けてから息を引き取りました。

 頭では僕もいつか死へ向かうということは分かっていたつもりですが、こうして近しい人が亡くなって行く事を目の当たりにしてみると、いつか死ぬんだという当たり前の事がはっきりと立ち現れたんですね。
宗教を持っていようが、無かろうが死ぬということは等しく用意されていて、そう思った時、『私の信じる宗教は何だろう』という悩みが何かとても小さいことのように思えてきて、そうやって悩むくらいなら、自分の思う方向に進んだらいいじゃないかと思えてきたんですね。

そうして、受洗をしようと決心するに至りました。



生活の中で、祈りの時を持てることは幸せなことだと感じています。
私ができることには限りがありますが、何もできなくなったとしても、祈ることだけは限りなくできますから。
そして、その祈りが神様の意に沿うものであるように学びを続けていきたいと思います。



お祈りします。
神様、今日はこのように私のつたない話をさせて頂く機会を与えていただいたことに感謝します。
あなたが、様々な言葉で、様々な方法で伝えてくださることをわずかでも振り返ることができたことを感謝します。
しかし、私たちはついつい自分の考えに引っ張られて、あなたの意図から外れたことをしてしまいます。
どうか、あなたの伝える言葉を理解し、実践できるだけの知恵と勇気をお与えください。
この祈り、イェスキリストのお名前を通じてお捧げします。
アーメン


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