東神戸教会
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メッセージ

20160911 『 あなたが気づけば マナーは変わる 』 ローマの信徒への手紙 7:1~6

 本がなくても生きられる。けれども本を読めば「自分以外のものに関する想像力」がつく。懐が少し深くなって、世に流通する「安直な物語」が恥ずかしくなる、と続けられていました。
 先週、日本キリスト教団「みんなの伝道協議会」で、仙台のエマオに行って来ました。二日目のフィールドワークで、石巻や女川を見て回りました。ほんの一部を除いて、5年経って何も復興していない悲惨な状況を目の当たりにしました。
 そのあとで、女川原発を見に行きました。初めてPR館を訪れました。町は復興していないのですが、この原子力発電所は、来年春の再稼働を目指して、これまでおよそ14メートルだった防潮堤を、倍の29メートルにする工事が進行していて、相当完成していました。
 館を案内して下さった担当の若い女性や所長さんは、ただただ「これで安全対策はばっちり」という話を最初から最後まで続けられました。そのくせ避難計画やいずれ来たる廃炉問題などについて質問すると、「それは私どもの答えられるものではありません」の一点張りでした。まさに、自分以外のものに関する想像力が全く欠けた世界で、聞いているこちらが、その安直な物語に恥ずかしくなるという代物でした。
 さて、今朝与えられたテキストには「結婚の比喩」という小見出しがつけられています。原発とは全然違う話ですが、小見出しだけ見ると、何か心温まる話なんだろうか、期待させられます。しかし、いざ読んで見ると存外に難しい内容です。ちょっと気持ちが引いてもしまいます。例えば2節、「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。」ぎくっとしますね。でも、夫が死ぬことを期待しているのではなくて、そこには当時男性の付属物として女性が定められていた古い時代の価値観があったのです。
 しかもそれら律法は、それを守ることを通して神さまに喜ばれる、そして救いに至ると考えられていましたから、私たちの想像以上にやっかいでした。どんなに夫の側に問題があろうと、妻が何かをしでかしたら、たちまち「律法違反」ということだけが取り上げられ、しかもそれは神さまの祝福を得られないこととして扱われたのです。
 ちょっと分かりにくいテキストですけれど、ここでパウロが語っているのは、そういう風に実際には人を縛って不自由にしている律法に囚われる生き方は、もう古い、イエスによって無くされた、新しくされたのだ、ということなのです。それが「しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになったのです」と6節で語られているのです。律法から自由にされたこと、しかもそれは神ご自身が私たちにして下さったこと、それに気づくことが神に対して実を結ぶことだとパウロは言うのです。
 ところでヨハネ福音書だけが記している出来事、その割には大変有名な出来事が8章冒頭にあります。「わたしもあなたを罪に定めない」という小見出しの箇所ですが、姦通の女性の出来事と言った方がよく通用するかもしれません。小見出しの言葉通り、イエスが貫通を犯した女性を赦された出来事でした。
 この捕えられた女性を人々がイエスのところに連れて来たというのです。連れて来た人たちはもちろん、イエスの言葉尻を捕えたかったのが本音であって、女性はその道具とされたのでした。
 確かに姦通を犯したのだとすれば、何もわざわざ裁判官でも何でもないイエスのところに来る必要はありませんし、本来そういう罪も、それに対する罰則もすべて律法に定められていました。
 実はこの箇所は、この箇所だけが何だか非道徳的、あたかも明らかな罪を何の戒めもなくイエスが許したもので、せめて二度と罪を犯さないための確約を取るべきだ、そうでないと、下手すれば罪を犯すことを奨励しているようにも受け取られかねない、そういう議論がずっとなされた箇所なのです。それでこの箇所だけが削除されておよそ1200年の時が経ちました。
 いやここでイエスが語られたこと、なされたことは、そういうことではない。人間の道徳観とか倫理観とかとは違うことを伝えられたかったのだ、ということになって1200年に再び記述が許された箇所なんです。面倒臭い話ですね。
 この時、イエスは人々のたくらみに反するように、かがみこんで地面に何か書き始められた、とされています。ある写本には「あたかも彼らの言うことが聞こえなかったかのように」という言葉が付け加えられています。「彼は顔を伏せて、指で地面に彼らを断罪する言葉を書いた。彼らは、石の上に、自分たちの幾つかの罪が書かれているのを見た」と続けられている写本もあるそうです。
 いずれにしても、この出来事は、道徳観や倫理観を問う話でもなく、律法を巡る論争でもなかったのは明らかでした。イエスは「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われたのです。姦通の女性は石打ちの刑と決められていたからです。
 ところが結局誰も石を投げることなく立ち去って、「イエス一人と真ん中にいた女が残った」と記されています。アウグスティヌスは、そこに、「ここに苦しみと深い恵みとが支配することになった」と言葉を付け加えました。その上で、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と語りかけられたのです。
 姦通は罪である。それ故にそれを犯したならば、このような罰を受ける。私たちの世界は今も同じようになんとも画一的な法律であふれています。もちろん必要なものもあります。ありますが、人を守るために作られたはずの法律ばかりではないのが現実です。当時の律法もまたしかりでした。
 今日の説教題はJT日本たばこのコマーシャルからそのままいただきました。歩きたばこやポイ捨てを止めましょうというコマーシャルです。マナーとは、そのように通常、礼儀とか作法とかエチケットとかの意味で解されますし、用いられます。しかしそもそもはラテン語のマナウス「手を扱うことごと」という言葉が転じて「人間としての在り方」という意味になった、それが語源です。
 震災の時、高台にあったため津波に流されなかった石巻の洞源院という曹洞宗のお寺に400人の人たちが避難しました。そして仮設住宅ができるまでの3か月生活を共にしました。お寺の住職が皆がうまく生活を続けるための8つの約束を考えて紙に貼りました。そのきっかけは玄関に散乱した被災者の靴を子どもたちが整頓したことだったと伺いました。手を扱うことごとが人間のとしてあり方を示すのでしょう。
 イエスは人間としての在り方を、神に聞き求めました。そして働いたのです。貫通を犯した女性を非難・断罪するのではなく、しゃがみこんで地面に何かを書いた、それはイエスにとって手を扱うことごとだったでしょう。手を扱うこととは体を動かすことであり、真の人間関係を作ることではないかと思わされます。
 なくてもいいものがある世の中を考えるとは、同時にいらないものを明確に判断する世の中だと言えるかもしれません。例えば原発はもう捨てましょう。そのことに気づいたなら、まさに「人間としての在り方」が変わるのでしょう。命を尊ぶ者と変えられることでしょう。
 「限りあるものが、限りのないものを受けとめることはできない。限りないものが、限りあるものを受け止めることができるのである」という言葉を聞いたことがあります。
 限りない方に従うことができますように。         

神様、私たちの視点をあなたに向けさせて下さい。
アーメン                                                                                                            
 
                                                       今日の花
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