東神戸教会
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メッセージ

20160918 『 固い絆に想いを寄せて 』 ヨハネによる福音書 10:31~39

 かつて鳥取の学校を出て、思いも新たに神学校へ進む決意をしましたが、その意気とは裏腹に入学試験に落ちてしまいました。その事は親にも言えず、内緒で関西に出て来まして、友人の計らいで西宮の教会、現在の門戸教会に住いを与えられました。そして当時、京都の北白川教会牧師の小笠原亮一先生と同志社女子大の武邦保先生が一週間ごとに代わる代わる勉強を見て下さることになりました。今、お二人とも天に召されていますが、ふとこの二人の先生の事を思い出すたびに、ありがたく感謝の涙を禁じ得ないのです。
 勉強のことだけでなく私たちの生活を心配して小笠原先生が、一度西宮まで訪ねて来てくださったことがありました。ちょうど今頃、秋の日だったと覚えています。阪急の門戸厄神駅までお迎えに上がったのですが、行って見ると、先生は見知らぬ一人の幼児と改札口でしゃがみ込んで何やら話をしていました。
 その頃先生は前歯が欠けていました。昔自分の子どもを抱いていて、子どもがそっくり返ったて頭がぶつかって歯が折れたのだと誰かから聞きました。
 ともかく、前歯がないと見栄えは悪いし、牧師として説教するのに発音にも悪いだろうと思いましたが、なぜか治療されずそのままにしておられた先生でした。しかしその歯の欠けたままの笑顔が何とも言えぬ味わいでもありました。その笑顔で、誰か知らない幼子としゃがみ込んで何かを話しておられた姿を忘れることができません。それは私にはイエスと幼子の光景に見えたからです。私にとって、そこにだけスポットライトが当てられたような、ひだまりの姿でした。
 イエスは子どもを抱き上げて祝福され、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と語られました。有名なみ言葉です。その頃私はまだ若く、子どももいませんでした。小笠原先生自身の姿が、まさに神の国を受け入れる幼子のようにも感じられたのでした。
 さて、そんな心温まる光景とはうって変わり、今日与えられたテキストには、のっぴきならぬ事態が描かれておりました。エルサレムの神殿での出来事ですが、イエスの言動に怒った人たちが殺意を抱いたのです。31節には、「ユダヤ人たちは、イエスを石で撃ち殺そうとして、また石を取り上げた」、とあります。また、とありますから、初めてではないのです。再び、なのです。実際、9章を読んで見ると、既に同じような出来事が起こった事が記されています。
 22節にあるように、時は、神殿奉献記念祭の最中でした。イスラエルがセレウコス朝に支配された時に、神殿にゼウスの神が祭られました。異教の神です。これを紀元前164年に取り返して以来、自分たちの神を取り戻したことを記念し、宮を清めるために行われた冬のお祭りでした。
 その祭りの最中に、一部のユダヤ人たちが神殿の中で、イエスを殺そうと石を持って迫った訳です。あまりに場違いな緊迫感を想像して下さい。彼らはイエスが神を冒涜している。自分を神としている、と激怒し、詰め寄ったのでした。
 さて来月、第40回となる教団総会が開かれます。大阪教区を始め、幾つかの教区が戒規処分された北村慈郎牧師の地位回復の議案を提出しています。これまでもそうでしたが、いずれも廃案になりました。
改めて振り返りますが、北村先生と北村先生が勤めていた紅葉坂教会の皆さんは、三年間に渡って聖餐式について学びを続け、最終的に望む人には配餐する、いわゆるオープンな形の聖餐を決定しました。これはいいとか悪いとかではありません。まして間違っている間違っていないという問題でもありません。もっとも正しいことかどうかも分からない。が、現時点ではこれが適切なのだろうと考えて選択されたのでした。それは私たち東神戸教会の選択においても同じでしょう。
けれども、北村先生を批判している人たちの中には、いまだに聖餐式を勝手にオープンにするとは、彼は自分を神だと思っているのか、と言うような批判を述べる人がいるのです。私はまったく逆ではないかと思っています。学び、神に祈って決められた決定なのです。正しいか正しくないかではないのです。懸命に聞き求めて出された一つの決定なのです。
 エルサレムの神殿に、何人もの人々が石を手に持ち、殺意を露にして迫る異常事態が起きました。イエスが自分を神にしているという理由で、です。恐らくは鼻息も荒く、目を一点に見据え、怒りに燃えて集まったことでしょう。この危機迫る事態の中で、しかしイエスは、自分は父である神に聞いて業を行っているのだ、と淡々と語りました。自分が神なのではなく、父の業を聞いて行っている自分は神の子なのだと言われたのです。そこには、静かな落ち着きと深い平安さえ感じさせるものがあります。緊急事態にあっても、神さまと固く結ばれた絆が見えるように思うのです。
 どうしてそれを行っているのか、その業の中身を見ようとしない。どのようにしてそこへと至ったかを考えようともしない。議論も協議もなく直ちに断罪する。ただ言葉尻を取り上げ、いかにも自分たちの言い分だけが正義であり、この世の基準であるかのように言い募る。どちらが自分を神にしているか、明白ではありませんか。
 現代を代表する神学者の一人に、アメリカのウィリアム・ウィリモンという牧師がいます。彼は或る本の中で、信仰の成熟について書いています。成長するとは、ほかの選択肢と比べたり、あらゆる可能性を考慮したりしながら、真理をあらゆる側面から見る能力を身につけてゆくことだと言うのです。
 幼子が純粋に、素朴に神の国を受け入れることができる、その心は大切にしなければなりませんが、そのことと自分中心、自己中心の子どもっぽい信仰では駄目だと指摘するのです。
 ウイリモンの文章を一つ紹介します。「神はすべての神の子どもたちを愛していますが、子どもたちに成長して欲しいと願っておられます。私たちが成長し、成熟した神の子どもとなるならば、子どもっぽいままで大きくなるよりもずっと神と神の国のためにお役に立てるに違いないと私は確信します。だから、パウロは言うのです。キリスト者の愛は赤ん坊の愛ではない。キリストの弟子となるために、私たちはたくましく成長し、自分の足で立ち、理性を総動員し、利己的でも甘やかされてもない者になることが必要です。そのような弟子になるために、子どもっぽい道から抜け出しましょう!」このように呼びかけているのです。
 思えば、小笠原先生の姿は、子どもではなく、しっかりした大人であるからこそ為しえた行為でした。私は小笠原先生が当時自分の家庭、自分の子どもの大きな問題を抱えて悩み抜いていたことを何も知りませんでした。後から知らされました。そのような課題を与えられてなお、否、だからこそ幼子となって幼子を受け入れることができたのだと今思っています。子どもの事を本当に思い、子どものために何かできるとしたら、子どものままでいては不可能でした。
 一面だけを捉えて一方的に糾弾する、なかんずく、排除し追放する風潮。現代の世界にも広がっています。乱暴極まりない、子どもっぽい、ガキの論理、行動に他なりません。イエスが父なる神との深い、重い絆に固く立って行動なさったように、私たちもまたイエスと固くつながり、その絆に思いを寄せて歩みたいのです。

天の神さま、私たちの信仰を成熟させて下さい。イエスとあなたの固い絆に私たちもしっかりとつなげられますように。
 
今日の花


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