東神戸教会
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メッセージ

20160925 『 必要なものは何故か地味 』 ローマの信徒への手紙 11:33~36

  先週閉幕したリオデジャネイロ・パラリンピックのメダルにはこれまでにない工夫がほどこされていました。中にスチールの玉が入っていて、振ると音がするのです。金メダルが一番大きな音がするよう、玉がたくさん入っているとニュースで見ました。これは素敵なアイデアでした。目の不自由な選手には、金であれ、銀であれ、色は意味がないですからね。 
 日本は金メダルなしで終わりました。でもテレビで観戦していて、残念ながら期待された結果が出なかった選手が「懸命に頑張りました」とインタビューに答えていたのは、とてもとても爽やかな印象でした。たとえメダルは取れなくても、そんな充実した思いこそが与えられた一番の「ご褒美」なのだろうと思えてなりませんでした。
 渡辺信夫牧師が次のような文章を書いておられます。
「聖書は、しばしば私たちに眠ってはならない、目を覚ましなさい、と呼びかけております。目を覚ますとは、信仰者にとってもっとも大切なことであると思います。目をさますというのは、目を開いて物を見るというのと同じではありません。確かに目を覚ましている人間にはいろいろな事が見えて来る訳であります。そして目を覚ましている信仰者は、それに伴う悟りも様々に開けてくる訳でありますが、目を覚ましたところで、主人が来るのが遠い先の方から分かっている訳ではありません。門の前まで主人が来て、戸を叩いて、それで初めて分かるのです。戸の叩き方で主人であることが初めて分かるのです。そして戸を開けて初めて主人の顔を見ることができるのです。それまでは何も見えないのであります。それまでは足音も聞こえないのであります。それまでは室内にともしびが一つ灯っているだけなのであります。」
 さて、今朝与えられたテキストは、パウロの言葉ですが、ここには旧約のヨブ記やコヘレトの言葉やイザヤ書からの引用が混ぜ込んであります。それらを混ぜ込みながら、人間の思いに比べてどんなに神さまの思いがはるかかけ離れているかが告白されているのです。
 カトリック聖歌には、ちょうどこの箇所を題材にした歌があって、「おお、神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きは悟り得ず、その道は窮(きわ)めえない」という歌詞となっています。
 神の思いと人間の思いは、イザヤ書の表現を用いるなら、天と地ほどにかけ離れていて、私たち人間が最善と思うことと、神の意思は異なることが少なくありません。
 例えば、かつてヤクザだったという人が思いがけない出会いを通して回心し、今は牧師をしているという人がいらっしゃいます。通常、私たちはそういう筋の人に会いたいとは思いませんし、関わりを持ちたくありません。それどころか、そういう人はこの世の中から消えてしまえば良いとさえ思うこともあるでしょう。
 もちろんみんなが回心して立ち直る訳ではないことを、私たちは知っています。でも確かに中には心から悔い改め、誠実に生き直す道を得た人がいる訳です。多くの人が思うことと、全然違うことを神はなさるのです。アウグスティヌスという人が「神は人間の弱さからも善を生ぜしめるほうが良いと考えている」と述べました。そうでなければ、彼自身がとっくに消され、用いられることはなかったからです。私たちは悪い人はみんな消えてなくなれ、と願いますが、そうではなく悪い人が変わること、そこから善き者が生まれることが神の望みであるのです。
パウロがそうして変えられました。彼は自他共に認める熱心な律法主義者でした。ユダヤ的愛国者でもありました。もちろんそれは彼の立場に立った時の一つの側面でしかありません。実のところ、それは競争して勝つあり方でしかありませんでした。しかし彼はその生き方がすべてと勘違いして、競争しない人を巻き込み、見下しました。あげくキリスト者を迫害し、何人かを死に至らせました。にも関わらず神はパウロを許し、あまつさえ心の転換を導き、用いられたのです。自分は強い人間だと誇っていましたが、むしろ強さの裏返しである彼の弱さを神はすべてご存じであったのです。頑張った人間にだけ救いが与えられると信じていましたが、そうではありませんでした。いわば頑張ったご褒美がメダルだったのではなく、そのメダルに込められた優しさや愛情がご褒美なのでした。
 釜ヶ崎に関わるようになって、水野阿修羅さんという方と出会いました。阿修羅とは御自分でつけられたニックネームです。水野さんは日雇いを続けながら、この方40数年ヶ崎に住んで来られました。
 そして、自分は死ぬまで釜ヶ崎に住むだろうと言われるのです。彼は釜ヶ崎の内実をよく知っています。暴力団もいる、ケンカもある、やばい連中もいる、決してきれいな街ではない・・・。けれど、そこには競争しない優しい人たちもたくさんいる。競争して他者を貶めるような生き方をしない人たちにいっぱい出会って来た。自分はそういう人たちに生かされて来た。だからこれからも釜ヶ崎に住み続ける、と。
 その釜ヶ崎には、警察によって100台を超える監視カメラが取り付けられています。先週、監視カメラの面白い記事がありました。イタリアの話です。ローマの銀行にも監視カメラがやはり取り付けられていますが、同時に大画面のテレビも取り付けられていて、何と監視カメラを見ている警備員の姿が映し出されているというのです。警備員を逆監視する訳です。「画面をじっと見続けるのに疲れて居眠りするかもしれないし、飽きて遊びたくなるかもしれない。みんなで見ていてあげないと」という銀行員の子面戸と共に、記事には、イタリアは、人間はそもそも弱いものと考え、その弱さに寛容な国と書かれていました。こういう柔軟性があるといいなと思いました。
 さて私たちは信仰を通して、キリスト教の神について学ぼうとします。懸命に目を覚まし、理解し、受け入れようと努力します。その学びがおかしいのではありません。ただ神は、私たちの努力で受け入れる方ではなく、神が私たちを受け入れられる方であるのです。
私たちが最善と思って選んでいることを、ほんの少し忘れて見ませんか?例えば競争です。例えば自己鍛錬です。自分には競争に勝ち抜く力も、鍛錬する努力もないと気落ちしている人はいませんか。
スポーツは競争かもしれません。でも人生は競争ではないのです。私たちの命は、私たちが思っている以上に大切なものなのかもしれません。神さまの富と知恵と知識の深さは計り知れないのです。パウロのように弱さを用いられる方が神です。競争しない生き方をご褒美として下さるのです。その神が私たちにもきっと言われます。競争しないでいいから、見つめてごらん、そういわれるのです。何をでしょう?命に必要なものの色です。それはきっと驚くほど地味であるに違いありません。


天の神さま、何もない時は良いのです。何か起こった時、威勢のいい声を発する人がいます。そこに力に引きずられないように助けて下さい。そこに乗ることがないよう戒めて下さい。私たちが小さなこと、優しいことを大切にする人生へと促して下さい。


 
         今日の花  
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