東神戸教会
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メッセージ

20161002 『 運命に克つ方法 』 ヨハネによる福音書 11:17~27

 まだクリスチャンでなかった頃は、つまり若かった頃は、結構「占い」を信じていました。誕生日占いとか、手相とか、12星座占いとか、様々な占いを見ては、喜んだり、心配になったり一喜一憂していました。
 でも、ある時ハッとしました。例えばやぎ座の人がどれくらいいるでしょうか?単純に人口で割って、1000万人くらいいる訳です。世界中だとその何倍もいるでしょう。その人がみんな「やぎ座」というだけで自分と同じ運命だというのは、かなりおかしくないか?
 しかも、どのような占いでも、運命は自分の努力で変えられると説くのです。それはうれしいことですが、変えられないから運命のはずなのに、頑張ったら変えられるっていうのも、これまたおかしくないか?ということで、いつからか占いに興味がなくなりました。
 さて、今日与えられたテキストは、ラザロの蘇りの出来事で、ヨハネによる福音書だけに記されている記録です。18節にあるように、場所はエルサレム近くのベタニヤというところで、エルサレムまで15スタディオンほどのところとあります。1スタディオンは185メートルですから、およそ3キロ弱、エルサレムへは目前の町でした。周囲は荒れた砂漠が広がっていますが、このベタニヤは緑あふれる美しい村だったそうです。
 ここに生前、イエスが大変親しく交わりを持っていたラザロ、そしてその姉妹のマリアとマルタの3人が住んでいたのです。イエスがいよいよエルサレムに入城して十字架につけられるまでの一週間あまり、聖書にはどこにもエルサレムのどこかに泊まったという記述がないために、イエスはこのベタニアの3兄弟の家を拠点に、日々エルサレムに通っていたのではないかと推測する学者もいます。それくらい、イエスは彼らを信頼し、深い親交を持っておられたのです。
 そのラザロが重い病を患って死にそうだとの連絡が入りました。直ちに来て欲しいという願いも当然含まれていたでしょう。ところが、その連絡を聞いてもイエスはすぐにはベタニアへ行かれなかったのです。すぐに駆けつけることができない事情があったとは書かれていません。一つ前の段落、6節に「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じところに滞在された。」とあります。更に、今日の17節には、「イエスが行ってご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に4日もたっていた」、とあるのです。ラザロの容態が重篤になって、マリヤ・マルタ姉妹は緊急に主のもとに使いを出したけれども、主は即行動されなかったばかりか、もはや死んで葬られて4日もたった頃にやって来た、というのが今日のテキストの出来事なのです。
 どうして、こんなに親しく交わっていた人たちからの危急の願いをイエスは聞かれなかったのでしょうか?マルタは主が来られた時、「主よ、もしここにいて下さいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と語っています。よく知られているように、この姉妹のうちマルタは行動の人であり、マリアは座って聞くタイプの人でした。主が来られたと聞いて、出迎えた時、マルタは早速、主の遅すぎる訪問に対して、恨みつらみの一言でもぶつけるしかなかったのでしょう。それは大変正直な言動でした。その気持ちは私たちにも良く分かります。だからこそ、なぜイエスは急がかったのかと疑問に思う訳です。
 その不思議さを解くカギが、4節のイエスの言葉にあります。使いの連絡を聞いて「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と返答されたのです。
 これはもちろん、すぐに理解できる言葉ではありません。ラザロの病気が何であったのかも分かりません。しかし、その病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためなのだ、とイエスは語られた、そこにその後のイエスの行動のすべての意味が込められていたのです。
 ですから、ベタニヤヘ出発される時に、弟子たちに向って「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」と言われたのです。この時、神の栄光のために行くという意味が分からなかった弟子の一人トマスは「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と全くとんちんかんな事を言ったことが16節に書かれています。
 再びマルタの言葉に戻りますと、即行動されなかったイエスをなじりながら、それでもマルタは「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、私は今でも承知しています。」と言葉を続けました。承知しています、とは、分かっていますという意味です。
 そこには、これからでもイエスがラザロを蘇らせて下さるかもしれないという期待が込められていたのでしょう。これに対してイエスは「あなたの兄弟は復活する」と答えられました。
けれどもここがマルタの限界なのでした。もしかしたらイエスが今からでもラザロを蘇らせて下さるかもと期待しながら、マルタが言った言葉は「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」というものでした。今ではなく終わりの日に、つまり終末の時救い主がやって来ること、そしてその時既に死んだ者もすべて生き返るというのがユダヤ教の教えでした。それはですから『未来』の出来事なのでした。実際、マルタの言葉は未来形で語られているのです。またそれは彼女自身の言葉というよりも、ユダヤ教の教えにおいてよく知られている事への一般的な同意に過ぎなかったのです。
 しかしイエスは、未来ではなく今、現在そのものの言葉を用いられたのです。またそれは借り物ではない、まさにイエス自身の言葉でもありました。「私は復活であり、命である」という言葉は全く現在形の言葉でした。そして私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない、この事を信じるか?とマルタに問われたのです。
 マルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております」と答えました。この返答を聞くと、これまた一見マルタが信じたように思われます。でも、この後墓に出かけられたイエスが、墓穴をふさいでいた石を取り除くように命じられると、早速マルタは「主よ、四日もたっていますから、もう臭います」と答えているのです。39節に記されています。そこにはもう終わった事で、もはやどうにもならないという思いが込められている訳です。
 これが今日のテキストの一番のポイントなのです。イエスはいつの日かやってくる終わりの日のことを語っておられたのではありませんでした。あくまでも今、この時そのものの事を語られたのです。ですから、ここに、今と言う言葉を付け足して講解されている牧師もおります。「私は今、復活であり、今命である」と。
 確かに死は私たちのどんなこともなす術を持たない終わりを表します。運命というものがあるとすれば、死はそれこそすべての人間にとって避けることのできない定めであり、運命と言えるでしょう。この運命を懸命に回避すべくマルタたちはラザロのために主を呼んだのです。イエスがいて下さりさえすれば、病は癒され、死を遠ざけることができると信じたのです。それは一縷の望みであり、必死の思いであったでしょう。しかし、それでも、例えこのとき一時の回復が与えられたとしても、いずれ死はやって来ます。その時どうその運命、定めを受け入れるのか、ユダヤ教で言われていたように、いつかやってくる終末の時には復活もあると、遠い未来の日を信じることなのでしょうか。
 イエスはそうではなく、復活も命も今なのだと宣言されたのです。確かに生物としての死を私たちは避けることはできない。けれども既に生き生かされている今この時、あなたの命は神が下さる永遠の命の恵みに預かっているのですよ。決して終わりではないのですよ、これがイエスの伝えたかった事だと思うのです。
 「雪とパイナップル」という大人向けの絵本があります。絵本作家ではなく、長野県の諏訪中央病院の医師・鎌田實先生が書かれたものです。チェルノブイリ原発の事故で大きな影響を受けたベラルーシの子どもたちを救おうと、鎌田先生たちは懸命の手助けをなさいました。たくさんの子どもが助けられましたが、そのうちの一人アンドレイは14歳で白血病で亡くなりました。助けられなかった負い目を抱えながら、先生は後にアンドレイの家族を訪ねるのです。元気だった頃にたった一度食べた経験から、アンドレイは病床でパイナップルが食べたいとつぶやきます。それを聞いた日本人のヤヨイ看護士が町中の店を探し回るのです。でも貧しいベラルーシ、それもちょうど寒い冬にパイナップルなどありません。しかしその噂を聞いたある人から缶詰のパイナップルが病院に届けられたのです。最愛の息子を失っても、なおそれを運命と諦めず、人生を責めることなく、鎌田先生やヤヨイ看護士たちの懸命の治療にお母さんは心からの感謝を述べたのでした。
 鎌田先生は本の中で言われます。「希望を組織することが大切なんだと思った。希望はあるものではなく、作るものなのかもしれない。希望があれば絶望の中を人は生きていけると思った。」「幸せは、もしからしたら、幸せを目指しているプロセスの中にあるのかもしれないと気づいた」と。
ラザロの病気が何であったか分かりません。でも病気であっても、なおそれを乗り越えて喜びや感謝に満たされるということは、本当にあるのです。イエスは神の栄光のためだと言われました。それは希望を作る言葉だったと思います。例え死が運命であったとしても、生は幸せを目指すプロセスの中にあり、作る希望を通して、運命に負けない生を送ることができる。そこにこそ神の思いがあり、それこそが神の栄光なのではないかと思うのです。
 鎌田先生はこうも書かれています。「人間は悲しい事・苦しいことの連続でも、幸せだなと思う事ができる。大切な人を失った悲しみの中にいるのに、仕方がなかったって思う事もできる。ヒントは人と人のつながりの中に存在する。ひとりぼっちで生きる時、幸せも不幸せも感じるのは難しい。孤独に生きることに慣れてしまうと、不幸せすら感じずに、流されて生きていることができる。人とのつながりの中で生きる時、幸せを感じたり、不幸せを感じたりするのではないか。」
兄弟3人で生きて来たマルタたち。そこには何らかの大きな事情があったのでしょう。それを知っていたからこそ、イエスはこの兄弟たちを特別に扱われたのでしょう。そして人とのつながり、神様とのつながりの中で生きてゆくよう示されたのではなかったでしょうか。ラザロとは神は助けたもうという意味の名前でした。
 それでも、運命に抗おうとして、私たちはもがきます。努力します。重圧をはねのけ、困難に打ち勝つ為の何かを手に入れようとします。日本人の好きなフレーズで言えば、気力と粘りが大切なのでしょう。
 でもイエスはそうではないと宣言なさったのです。私たちの努力や頑張りが無駄だと言われたのではありません。そうではなく、運命に克つものはもっと私たちの近くにあり、予想を超えて楽なものなのだと。私たちの努力や頑張りとは無関係に与えられているものなのだと。
 ギルバート・キース・チェスタートンというイギリスの作家が「人間が何もしなければ運命が襲い掛かって来ると私は信じる」と述べています。何もしなければ、とはだから遠くへ向って懸命の努力をしようということではありません。そうではなく、本当は運命を変えることって、自分の足下を掘ることだという事です。足下を掘るとは、私が今復活であり、今命であると語られたイエスの言葉を信じるかどうか、という事でもあります。それはもっと簡単に言うと、他の誰とも変えられないかけがえのない命だということです。その言葉を信じて希望を作ることだと思います。頑張った末に、頑張った人へご褒美として与えられるもの、それが死をも越える永遠の命なのではなく、既にあなたの魂は、命はイエスを通して今、永遠の命である神の元に置かれているのだということ。この私たちの足下の恵みを見つめる者でありたいと思うのです。


天の神様、ラザロとは神は助けたもうという意味の名前でした。あなたは私たちの思いを越えて必要を満たし、恵みに預からせて下さる方です。イエスは信じるか、と問われました。信じますと答えたいのです。その信仰へ導いて下さい。

 
 
                                                        今日の花
   
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