東神戸教会
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メッセージ

20161023 『 神は長~いお友だち 』 マタイによる福音書 10:26~31

 埼玉県のある教会の役員さんが書かれた文章を一部を紹介します。
「現在、所属する教会の前身は、某教会の出張伝道所だった。集会所から伝道所へ、そして会堂建築を経て第二種教会へ、近年には宗教法人格を取得した。この激動の時にあって、少しも不安を抱いたことはなく、むしろ楽しさを覚えた。それは神さまのみ心として実現したこと、と素直に喜ぶ。」
 こうありました。この激動の時にあって、少しも不安を抱いた事はなく、むしろ楽しさを覚えた、という一文にすごく驚きましたし、励まされます。
さて10月も下旬、今日から契約節に入り、2016年の教会暦があと一ヶ月で終わろうとしています。今年を振り返って、これから様々なところで評価がなされることでしょう。今年も大きな地震被害や水害が相次いで起きました。紛争の続く世界も同様です。私たちの先行きにはいつも著しい不安があります。もはや激動が普通の時代にあって、私たちはどのようにこの不安や恐れと向き合い、対処しなければならないでしょうか。
 今日与えられたテキストで、イエスは繰り返し語っています。恐れるな、と。身体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな、と。二羽のスズメが一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
これ、ルカによる福音書に並行記事がありまして、そこでは「5羽のスズメが2アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。」とあります。
1アサリオンとは今で言うと5~600円程度のものです。1羽となればせいぜい2~300円の価値です。お金に換算すればたかだかそれくらいの取るに足らぬものでさえ、神はお忘れにはならない。お見捨てにはされない。ましてあなたがたはスズメよりもはるかにまさっているのだ、そうイエスは語った訳です。
 この言葉は、イエスが12弟子に向けて語られた言葉です。この先、自分に従うと迫害を受けることが起こるだろうと予告されました。一つ前の段落です。実際、当時のクリスチャンは激しい迫害を受け続けたのです。この予告に続けて語られたのが、そういう人々を恐れるなという今日の言葉でした。
 考えてみると、当時の弟子たちから始まって、世界へ広がって行ったクリスチャンたちは、いつでもどの時代でもどこでも、常に迫害と戦って来たのです。その意味では、キリスト教はいつでも激動の時代を歩んで来たのだと言ってもおかしくはないでしょう。それに加えて様々な社会問題が幾つもありました。現在、日本では暴力を受けるような迫害は表面的にはありません。でも一方で何も期待されていない、求められてもいないという意味での迫害はあります。ですから何も今だけではありません。これまでも先行きの見えない中を、いつだって生きて来たのです。

 初めに紹介した文章の続きはこう書かれています。
「教会に集うことは、良いことであり楽しいことと考えるから、子どもたちがしっかりと教会に連なり、生涯イエス・キリストに従う事を願っている。教会役員として今考えている事は、教会学校の子どもたちや青年たちといった、教会を支える次の世代のフォローだ、その為にも他教会との交流を深めて学びたいという願いを持っている。だから、教会役員の交流がもっとあっても良いと考える。これからも、牧師や他の教会役員と共に、キリストの体なる教会を形作る喜びに生かされたい。」
 筆者を不安なく動かしているものは、教会が楽しいところだという大前提と、信仰を共にする仲間にあるのだと強く思わされました。そしてそれは2000年前の激動の時期にあった、12弟子たちとも全くつながることなのでした。
 ただし、ただただ楽しいから歩み得たのではなく、イエスを通して再三の励ましがあったからそうできたのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とイエスは語りました。これこそ「勇気を出せ」との励ましそのものでした。そしてそれはイエスの生涯が終盤になって、更にはっきりして行くのでした。上から偉そうに命令を出したイエスではなかったのです。
 イエスは、弟子たちを「友よ」と呼びかけました。「私はあなたがたを友と呼ぶ」とはっきり語っています。自分を裏切ったユダに対してさえも、友と呼びかけたのです。マタイ26章によれば、こうです。
「イエスを裏切ろうとしていたユダは、わたしが接吻するのが、その人だ、それを捕まえろ」と前もって合図を決めていた。ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕えた。
 このように、イエスは、捕えられるきっかけを作ったあのユダにさえ「友よ」と呼びかけたのでした。この箇所について、或る牧師の文章にこうあります。
「今日私たちの中にも、いろいろな生き方があり、目指すところは同じでも辿る道が違っていたり、同じ道でも進む速さが違っていたり、色々です。方向が少しずれていたり、勘違いの道を行く時もあるでしょう。行けども行けどもその先に光が見えてこない絶望的な道かもしれません。けれどもそれぞれに、目指すべきところを確かめながら、神に尋ねながら、聖書に聴きながら、進むべき道を見定め、それぞれに直面することと向き合いながら、それぞれの歩みをもって進んで行きたいと思います。その時に、それが少し外れた道であっても、間の抜けた道であっても、イエスはこう言って下さるだろうと思うのです。「友よ、あなたが直面していることへと進んで行きなさい。あなたが欲していることを追い求めなさい。そうすれば、友よ、この闇の向こうには、友よ、輝く明日がある」そんな声を信じながら、この半ば絶望的でもあるようなこの時代にあって、主にある歩みを進めて行きたいと心底願うのです。」

 私たちは聖書を通し、イエスを通して、神がどのような方であるかを繰り返し教えられて来ました。神は創造者であり、万能の方です。私たちの導き手であり、慰めの主です。先生であり、育ての親です。神についていくつもの形容ができます。
ですから聖書を読む時、神はそれはもう絶対に私たちの上に立つはるかな方のように思われます。けれども決してある一面的な方ではないのです。なぜなら神は聞かれる方だからです。何となれば、私たちのしんどさを聞き、受け止めてくれる人こそが真の友であるように、神は最終的にはいつも聞いて下さる。だからイエスがそう呼んだように、示したように、神は一人子であるイエスを通して、いつも私たちの傍らにいる友でいて下さるのです。イエス自ら、そうして下さったのです。一人ではないという励ましと支え、これが聖書に記される神の愛の姿なのでしょう。
翻って、私たち人間にとって、誰かと友だちになることは結構難しいことです。誰とも公平に、積極的に友だちになろうとすると、必ずしんどさが伴います。相手を100%理解することなどほとんど不可能でしょう。しかし自ら私たちの友となったイエスは神について言われたのです。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と。これは聞いただけでなく全部覚えている、という宣言です。全部ですから、いいところも悪いところも全部ということです。始めから知っていることもあれば、現在進行していることも全部知っているということです。聖書における友とは、信頼に足る人という意味を持つのです。友という漢字は、手と手を合わせた形からできたそうです。手と手を合わせて支えるのです。すべてを知った上で、支えられるのです。
「髪の毛一本残らず数えられている」この箇所を「きついな」と言った友人牧師がいました。髪の毛がほぼないからです。私は「きっと、神さまが数え易くされたんだよ」と答えました。
それはジョークですけど、髪の毛があろうとなかろうと、私たちのすべてを覚えて下さり、神は私たちの友となって下さる方です。これまでもそうですし、これから先もそうです。私たちが無視し、忘れる時があっても、なお神は長い付き合いを重ねて下さいます。この支えがある限り、私たちはきっと今の、またこれからの激動の時代にあっても、喜びにあふれて歩んでゆけるのだと信じます。



天の神さま、友でいて下さるあなたに感謝します。元気が出ます。私たちもそれに倣って参ります。どうぞ私たちを不安から解き放ち、固く結び合わせて下さい。


         今日の花  
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