東神戸教会
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メッセージ

20161113 『 一生 お願い 』 マタイによる福音書 5:33~37


 先週新聞の「ひととき」というコーナーに掲載された記事を紹介します。京都にお住まいの木安茜という79歳の女性の投稿です。

 「私は幼い頃からクリスチャンです。私には46歳の重度知的障がい、自閉傾向の娘がいます。私たち夫婦は、「これを育てよ」という神のご意思と受け止め、大切に育ててきました。▼障がいの重さゆえ、あらゆる場が娘の仲間入りを拒みました。医師に「友だちが必要だ」と言われ、保育園や幼稚園を探しましたが、「会話ができない」などと断られました。友人らの力を借り、なんとか保育園と養護学校を終えました。▼しかし、社会人としてのスタートは許されませんでした。娘一人で遠方の施設入りを勧められた時は、心が震えて断りました。当時住んでいた街の市長に、障がい者が地域で生きていける場所の設置を訴えました。▼現在、娘はデイサービスで日中を過ごし、夜はケアホームで仲間4人と数人の職員に食事や入浴などを支えられ、自由な時間を過ごしています。金曜日には笑顔で父母の元に帰ってきます。身長120センチほどで白髪のある娘は、公園に行くと子どもたちから「小さいおばさん」と呼ばれ、存在が認められています。▼自分の命が娘の命より尊いとはとても思えません。生命は障がいの有無にかかわらずみんな尊いのです。」

 以上、実に切ない文章でした。この投稿が、7月に起こった、神奈川の津久井やまゆり園の悲惨な事件が背景にあるのは、きっと間違いないと思っています。犯人は元職員でありながら、「障がい者は不幸を作ることしかできません」「障がい者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます」と供述していました。恐るべき言葉であり、思想です。障がいある家族や身内や友人を持っている人々の心を、どれだけ傷つけたことでしょうか。或いは憤りと怒りでいっぱいになった方もいたかもしれません。

 さて。今日のテキストは、大変厳しいイエスのお勧めが書かれていました。これは弟子たちに向けて語られた形となっていますが、実は明らかにファリサイ派や律法学者たちのことが背景にある言葉です。
 今日の箇所で「誓ってはならない」とイエスは言われたのです。この前後のお勧め、或いは命令の話はいわゆるイエスの山上の説教の一部分になります。そして、そのどれもこれも、分かるけど、実行するのが大変難しいものばかりです。例えば有名なのは次の段落です。小見出しには「復讐してはならない」とあります。でも、右の頬を打たれたら左も、など、とてもできない、絶対不可能だとさえ思われます。とりわけ理不尽で許せない事件が起こった時は、完全に忘れて吹っ飛んでしまいそうです。

 ただそれらの戒めの言葉は、他の福音書にも記されていますが、不思議に、「誓うな」というこの箇所は、ただ一人マタイだけが記したものです。実は当時、人に誇るために、自分を自慢するために、当時やたら誓いを示す人が多かったのです。それこそファリサイ派や律法学者たちが筆頭でした。天に向って誓う。神にかけて誓う。エルサレムの神殿にかけて誓う。誓いの真実性を強調したいがために、自分を越えて一層大きなものに頼っておおげさに誓ったのです。日本でも「天地神明にかけて」などと言います。
 けれど問題は、それをほとんど実行できないことです。できないのに誓うのです。というよりしないのです。しないのに誓うのです。しかもバックに神さまを立てて。誓いの内容より、誰に、何に誓いうかが大事だった。そういう人たちが台頭していました。ですから偽りの誓いを立てないという事のみならず、イエスは人が誓うことそのものを拒否なさったのです。

 そんな現実の中で、イエスはできそうもない事々をお命じになられました。実行が難しい事をお勧めされました。山上の説教の戒めは、まるで不可能な使命、ミッション・インポッシブルと言えます。そしてそれに従うことが、とても「誓えない」のです。何だかイエスの思いが見えて来るような気がします。そのためにマタイは編集したのでしょう。 翻って私たち、子どもたちに向かって日常生活について、生活態度について親は親としてあれこれ注意をします。その中には自分自身実行していないこと、できないことも時にはあります。それは身勝手な注意かもしれません。でも子どものためを思えば、どうしても言わねばならないことがあります。自分がどうか、また子どもができるできないは別にして、素直に耳を傾けてもらいたいことがある訳です。その割に返事を強要したりもしますけどね。

 聖書の時代、天に誓ってモノを言う偉ぶる人がいる一方で、小さくなっていた人々がおりました。自分で誓って自分でできない人々がたくさんいた訳ですが、そういう彼らが社会を支配していました。彼らのように堂々と誓えない人たちはひっそりと小さくなっておりました。お陰で、真に喜んで生きることができない雰囲気が社会に充満したのです。
 そのような偉ぶる人々を念頭に、イエスはあなたがたはそうではなく「しかり、しかり」または「否、否」すなわち、そうです、その通りです。または、いいえ、そうではありません。これだけを言いなさいと命じられたのです。それ以上のことは、悪い者から出るのである、とまではっきり語っています。この思いこそがミッション・インポッシブル・不可能な命令の中心にあったのではないか、私はそう思います。
 それは、神が語られることに対する応答を意味していただけでなく、世の中の物事に対する明確な応答をも意味しておりました。神が語られることに、一つ一つ応答して行く事は、同時に神からではないものへの応答でもあったからです。ですからこれは、小さくなっている人たちへの励ましの言葉でありました。

 もう少し分かり易く言えば、命に対してイエスかノーかをしっかり判断しないさいということだったと思います。それは小さな命に寄り添えるかどうかという問いかけでもあったでしょう。 障がいを持つ人がみな特別良い人だなどと持ち上げるつもりはありません。けれど、障がいを持つ人、この世の様々な出来事によって小さくされている人には、そうではない人より命に寄り添う思いが大きいように思うのです。その視点から教えられることがたくさんあるのです。

 イエスが神の子であるなら、もしかしたら人の世を一気に変えてしまえるようなもの凄い力を備えられていたのかもしれません。でも「力」を持つことは常に怖いことでもあります。その力を自分と違う人々を排除することに使いかねないからです。自国民のことだけ。移民など知らない。この人種は嫌い。そんな歴史の例にどれほど満ちた世であるでしょうか。
 だからこそ、イエスは不可能な命令を語りつつ、その中心に「命に寄り添えるかどうか」を語られたのでしょう。彼は力づくで変えることなど何一つされませんでした。力を用いられなかった。不可能な命令を出されたけれど、イエス自身、世を一気に変えることはできない、してはならないという思いに悩みつつ、そこに立ち止まったのでしょう。

 私たち、「一生のお願い」と言います。本来一度のはずのお願いを、私たちは何度もして来ました。たぶん勘違いです。一生のお願いではなく、私たちは一生お願いし続けるしかないのです。私たちの代わりに十字架に就かれた方は誰だったでしょうか。むしろ、神からの実行不可能な命令ミッション・インポッシブルを淡々と担い、実行されたのは、他ならぬイエスご自身でした。この主に、然り、アーメン、一生お願いしますと唱えたいと思います。



天の神さま、たとえあなたにすべて従えなくても、小さな命に敏感であれるよう、私たちを耕して下さい。


         今日の花  
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