東神戸教会
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メッセージ

20161120 『 幸せになるために 』 マタイによる福音書 25:31~46

 皆さん、セレンディピティという言葉を覚えていますか?知っていますか?何年か前に話題になりました。セレンディピティーとは、脳学者の茂木健一郎さんの言葉を借りるなら、「偶然の幸運に出会う能力」という意味だそうです。
 もともとセレンディピティーと言う単語は、18世紀のイギリスの作家、ホラス・ウォルポールという人が考え出した造語でした。彼が子どもの頃に読んだ「セレンディップの三人の王子」というおとぎ話から作られた言葉です。
 セレンディップの三人の王子は、ペルシャのおとぎ話で、セレンディップとは今のスリランカのことだそうです。なかなかにおもしろい寓話です。
 そのスリランカ、セレンディップの国に、かつてジャッフェルという偉大な王様がおりました。王様には3人の息子がいて、父親にも劣らない立派な素養を身につけた若者たちでした。王様は年を取り、いずれ三人のうちの誰かに王位を譲ろうと決意しました。しかし王様は、なお息子たちに王様にふさわしい体験を積んで欲しいと願って、彼らを修行のための旅に出させるのです。
 この王様がどんなに立派かと言えば、彼が息子たちに贈った、王として守らねばならない七つの言葉に表されています。第一に、そしてもっとも大切なことは、常に神に対して畏敬の念を抱くこと。第二に、兄弟たちに自分の子どものような気配りをすること。第三に、困っている人々を救済する事。第四に老人を敬う事。第五に迫害される罪なき人々を救済すること。第六に罪人を罰する事。第七が国民に平和と富をもたらすこと。
 これらが大切だと息子たちに言い聞かせたのです。さて、三人の王子たちは王様の命令のまま、まったく当てのない旅に出ました。そしてたちまちラクダ泥棒の罪を負わされて牢獄に入れられることになるのです。
 全部物語りを紹介してしまうと、よろしくないので申しません。ともかく旅の途上で様々な事が起こるのですが、彼らは互いに知恵と力を合わせて、果敢に課題に立ち向かうのです。そして結果から言うと、それぞれに立派に成長し、一番上のお兄さんがお父さんの後を継ぎ、後の弟たちも別の国の王様になるという結末のお話なのです。
 で、ウォルポールはこの物語を読んで大人になってから、セレンディップからセレンディピティーという言葉を思いつきました。それが偶然の幸運に出会う能力という意味の言葉でした。三人の王子たちは、旅をする中で、もともと自分たちが求めていたものではないものに出会います。今も少し言いましたが、ラクダ泥棒に間違えられたりする訳です。けれどもそのような偶然の出会いが、結果として王子たちに幸運をもたらして行くのです。
 ノーベル賞をもらった人々の中で、しばしば思いがけないところから新しい発見が与えられて研究成果につながったという話を聞きます。別にノーベル賞でなくてもいいんですけど、サイエンス・科学の世界では、こうした偶然の出来事を引き寄せることがとっても大事だということで、セレンディピティーという言葉が近年よく使われて来たのです。
 茂木健一郎さんは、しかし、偶然の幸運に出会う能力、そんな能力など誰にもないと言います。そんな能力があったら、或いは作れたら誰も出会いの苦労などない訳です。ただ、偶然を必然にする感覚を高めるために必要なことがあるのだ、と。それを三人の王子の物語を通してこう書かれています。「果報は寝て待てではなく、とにかく具体的な行動を起こすことが肝心です。三人の王子は何かを求めて旅に出ました。何も求めず、また旅にも出ないでじっとしていたら、予想外のものに出会う事もなかったでしょう。世界の中を移動するからこそ、異質な他者や、自分が思ってもいなかったような外部性との出会いもあるのです。また、王子たちは偶然の出会いがあったときに、先ずその出会い自体に気づくことができました。そのような気づきは、自分の外で起こっている事や、自分が心の中で感じていることに対する注意深い観察力があって、はじめて可能になります。観察は自分の体験から学ぶプロセスの出発点なのです。次に王子たちは、意外なものとの出会いに際して、自分がそれまで抱いていた「このようなものが欲しい」という仮説にこだわらずに、素直にその意外なものを受け入れることができました。脳の中に既にある仮説をダイナミックに修正し、それを自己の中に受容することができてこそ、私たちは体験からの学習を完成させることができるのです。」
 そう言われて、だからこれらの三つの要素、つまり「行動」・「気づき」・「受容」は私たちの日常生活における様々な局面にも適用することができるのだと言われるのです。もちろん、この三つすべてが揃っていれば、必ず偶然の幸運に出会える訳ではありません。肝心な出会いそのものが与えられないことだってあるのです。そうではなくこれらは準備なのだ、と言うのです。偶然の出会いそのものは、私たち自身の力でコントロールできないのです。セレンディピティーは、偶然の出会いがあったときに、それを生かす準備ができている、また事後にそれを生かすことができる能力なのだ、と言われるのです。しかしこれを磨いておかなければ、たとえせっかくの出会いがあっても、それを生かすことができないのだと。
 前置きが長くなりました。今日のテキストの話は、イエスのたとえ話です。二つの種類の人々に向って王様が語られたというのです。片方は祝福される人々。もう片方は罰を受ける人々。祝福される人々は、なぜ自分たちが祝福されるのか分かりませんでした。王様は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」と説明します。この人たちは、それと知らずに、飢えていた人に食べ物を出し、渇いた人には水を飲ませ、旅人には宿を提供し、裸の人には着物を用意し、病気の人を見舞い、牢に入れられた人を励ましに、そういう生き方をして来た人たちだったのです。それは敢えてそうしようと何かを狙ってしたことではなく、また目立たない、隠れた行為でもあったのでしょう。
 ところが、罰を受ける人々は、あなたがたはそうしてくれなかったと述べる王様に「いつそうしなかったか?」と逆に問いました。恐らく、偉い人、関わりのある人、関われば後につながると計算した相手には、相応の対応をして来たのでしょう。それはまさに敢えてしたことであり、目立つ、見せる行為だったのでした。
 イエスのこのたとえ話は、まず偶然の出会い、予想外の出会いは神さまが与えられるものだと示しています。こればかりは、私たち自身の努力にはかかわりのないことなのです。そしてもう一つは、愛のセレンディピティーを示しています。自分の予想外の出会いがあった時、例えそれが自分の望むこと、捜し求めてきたものと違う場合であっても、そこで打算ではなく、まずは相手と関わるという関心を持って行動し、何が大切なのかに気づき、それを受け入れること、それが結果的に幸福につながる、思いもしなかった結果になってゆく、神さまからの祝福を得ることになるというお話しなのです。
 本当の幸せは、神さまからもたらされます。これは間違いなくそうです。神が与えて下さる出会い、その出会いの時に備えて行動し、気づき、受け入れること。この三つの要素を磨きたいと思うのです。この愛のセレンディピティー、愛による偶然の幸運に出会う能力のために、その能力を更に磨く為に私たちには信仰生活が与えられています。そこでは偶然が必然に変えられてゆくのです。私たちは信仰生活を通して、実は「必然の幸福に出会う能力」を耕しているのでした。


 天の神さま、私たち誰もが幸せになるために、あなたが下さる出会いを喜んで受ける者にならせて下さい。

                                                
                                                     今日の花  
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