東神戸教会
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メッセージ

20161211 『 悲しみよ、こんにちは 』 マタイによる福音書 13:53~58

 今年の夏、長男がミクロネシアのワークキャンプに参加して来ました。高校生の時以来2回めのキャンプでした。一緒に参加した年配の隊員が、突然心筋梗塞で亡くなられるというワークキャンプ初の悲しい出来事があって、なかなか大変だったようです。

 リーダーである荒川義治牧師からかつて聞かされた言葉を改めて思い起こします。過去30数回に渡るワークキャンプには、これまでおよそ500名もの参加者が与えられ、そこからたくさんの受洗者も出ました。そこには10数名の牧師を始め、今は役員となって教会を支える人になった人々も少なくありません。昨年は小野輝さんが新婚旅行を兼ねて参加しましたが、私もかつてそれで参加した一人です。このような現実の結果をもとに、一度切られる事(日本の生活の現場から)、そしてもう一度大切なものと結ばれる事・繋がれる事の大切さを荒川先生はずっと語られて来たのです。  余島のキャンプでも体験することですが、ポナペのような本当に何もないところでは、もっともっと、まさに日本とは全然違う非日常の生活体験が強いられるのです。誰でも、嫌でも自分で何かをしないといけない。考えねばならない。無理矢理迫られるのです。日本ではして許されたことを我慢する・つまり切る。切らされることが起きます。そしてそういう切る・切られる体験の結果、あきらめるのではなく自分にとって本当に何が大切かということに気付かされてゆきます。

 ポナペというところでそれが与えられる訳ですが、それではわざわざポナペに行かなければそういう体験ができないのかというと、確かにポナペそっくりのような体験を得る事は難しいだろう。けれども絶対に無理かというとそうではないのです。 例えば教会こそは、日本にあって非日常の体験をなすところであるはずだ、と荒川先生は言われるのです。しかし残念ながら、しばしば私たちは自分の日常をひきずって教会に来てしまう。今日の夕ご飯を何にしようかというような事から始まって、様々抱えるこの世の事を切らないで、そのまま教会に持ち込んでしまう。切られていない、という訳です。

 この言葉には本当に考えさせられます。私もかつてのワークの体験を思い出しながら振り返るのですが、ポナペでは必要なものが簡単には手に入らないのです。それでもなお必要を満たされる神の業を荒川先生は語って来られました。何かが必要な時、そうやすやすと手に入らない、例えば釘一本だってないとなればたちまち困る訳ですが、さっとホームセンターに行けば買えるところではないのです。それが満たされるまでに、日本に比べれば、随分時間がかかったり、自分の手だけでは足らず、少しの事でも多くの人の手をかけたり借りたり、そうやってわずかなことでも自分の思うようにはならない。「神様、釘を与えて下さい」そういう祈りを持って待たねばならない。自分だけで生きられないことが実によく分かるのです。その上で一番必要な事は何かを知らされて生きる生活は、豊かで満たされるのだと先生は語られました。

ですから確かに、そこまでの体験はなかなか日本にいるままではできないでしょう。でも私たちは本来、この日曜の礼拝に、一週間のこの世の生活から解き放たれて、神様の時間を味わう事を通して癒され元気にされるために集まっている。そうであるはずであるにも拘らず、すべてを委ねておれるかというと、色んな憂いや不安や不満をそのまま持ち込んでしまっている事が少なくない。それでせっかく集っても、なお解放されないし、かえって不満が大きくなってしまうこともあるのでしょう。

幼稚園園長の頃、お母さんたちと園のクリスマス会について話し合ったことがあります。一人のお母さんがクリスマスはプレゼントばかり、ものだらけで何とかならないものか、幼稚園でまでプレゼントをする必要があるんだろうかと語られました。もっともでした。私もクリスマスが単なるプレゼントを貰う日ということではおかしいと思いました。

でも、クリスマスが神様からの一人子イエスという大きなプレゼントをいただく日という一番大切なことが分っていさえすれば、後の事は二義的問題だとも思うのです。沢知恵さんは、子どもの頃普段は何も貰えないのに、クリスマスだけは数え切れないプレゼントを貰える素晴らしい日だったと書かれています。牧師である両親がそのようにクリスマスを設定し、演出したのです。クリスマスがモノだらけなのではなく、クリスマス以外の時、一年中がモノだらけの時代なのです。モノだけでなくあふれているのは情報です。つまり、肝心な時以外の余分が有り過ぎるということです。

さてイエスがイスラエルの各地を回られていったん故郷ナザレに戻って来られました。今日のテキストです。故郷ではありますが、イエスは何ら変らず他のところと同じように会堂で話され教えられました。ところが、他の場所では感嘆をもって受け入れられた事が故郷ナザレでは違ったのです。

人々の言うには「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか」この人と訳されていますが、実際はもっときつい言葉です。ほんとはこいつは、です。こいつはたかが大工の息子に過ぎん奴だ、というのです。54節に驚いて言ったとありますが、感心し感嘆したという驚きなのではなく、大工の息子に過ぎないこいつが何を偉そうに、と拍子抜けし、あきれた驚きだったのです。

今日のテキストはマタイだけでなく、マルコ・ルカも記していますが、それらを読み合わせると、一層生々しいです。ルカによれば、イエスの言葉を聞いて憤慨した人々は、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした、といいます。

確かに彼らにとってイエスは、十分に知られておりました。その意味で、たかが大工の息子です。たかが大工の息子だからこそ、それに相応しく振舞っていさえすれば、こんなことにまではならなかった。彼らはイエスの表面については、どこの誰より知っていたのです。そしてそれを会堂の中に、礼拝の中に持ち込んだのでした。

イエスは「預言者が敬われないのは、その故郷・家族の間だけである」と語りました。故郷に錦を飾って大歓迎されるという期待があったのでしょうか。そうではないでしょう。ちょっと想像すれば、こういう結果は容易に考えられる事だったでしょう。だからこそ故郷を捨てる人もたくさんいます。イエスの場合、大金持ちになったのでも地位を得たのでもないのです。かえって訳の分らぬ行動をした、相当変った奴としか思われていなかったでしょう。そんな事はイエス自身十分分っていたはずなのに、どうして故郷に、ナザレに戻られたのでしょう。

それは、神の愛はどんなところにももたらされる事の実証のためだったからだと思うんです。福音の種は初めから良い土地だけに撒かれるのではなく、例え収穫は少ないにせよ、道端にも石だらけの地にも、茨の土地にも公平に撒かれるものだからだと思うのです。イエスは素直にそう信じられ、故郷ナザレを避けて通られず、ナザレにもたんたんと福音を伝えられたのです。マルコによればイエスは人々の不信仰に驚いた、とありますから、あまりにも素直に信じ、素直に神様に従われた行動の結果だったと思われるのです。

どうでしょうか。ナザレの人たち、もったいないなかったと思えてなりません。せっかく福音が語られたのに。伝えられたのに。聞かれないのではなく、聞かれていたのに。与えられていたのに。彼らは自分で耳をふさいでしまいました。捨ててしまいました。どのような経歴であれ、知っている人であれ、語られた事の中身こそが大事であり、それをこそ聞くべきだったと思うんです。彼らの持っていた余分な知識が、一番肝心なことを阻害してしまいました。まるで金持ちの青年のたとえとそっくりです。

本当にナザレの人々は残念だったと思うのです。外側だけのこと、表面だけのもの、それも自分の知識、この世的常識だけでイエスを切ってしまった。そこでイエスはナザレではあまり奇跡をなさらなかったとあります。意地悪でそうしたのでは決してないでしょう。イエスの行われる奇跡、なされた業はいつも一対一、交わりの中で、信じ信じられる関係の中で起こされたのであり、それはナザレでは不可能だったのです。たかが大工の息子ではないかと思った途端に、すべてが聞かれなくなってしまいました。本当は、切るべきは自らの日常性にありました。 

こんな事が現代の私たちにも数多くあるのです。これは実は故郷の課題ではないのです。どこでも起こりうるのです。教会でもそうなのです。クリスチャンでもそうなのです。それはもう知っている。分かっている。既に持っている。そう思った瞬間から、見えなくなってしまうことがたくさんあります。私たちは、時々自分には何もない、何も持っていないと嘆くことがありますけど、本当は持ち過ぎて何を真に持つべきかを見失っていることの方がずっと多いのです。

私たちも、イエスを通して本当の意味で自分の狭さやこの世的な価値基準から切り離される事が大切なのではないでしょうか。持ち過ぎているのに気づかない、自らの悲しみにしっかり向き合わねばなりません。その上で自分が切って見失ってしまったもの、人間が切り捨て顧みないものを神様が拾い、また結び付けて下さる。この恵みの業の出来事を発見したいのです。

クリスマスは、そういう神の業の中身を見つめる時です。神によって切られ、また結ばれるのです。表面の事だけを懸命に詰め込もうとするのではなく、私たちの内面に新しいものを取り結んでいただけるクリスマスを共にお祝いしたい、そう思うのです。



天の神様、切り、結んで下さるあなたのみ業に驚き、そして感謝します。上面のことではなく、どうか、一番大事な事を教えて下さい。


                                                
                                                     今日の花  
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