東神戸教会
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メッセージ

20161225 『 鮮度は続くよ、どこまでも! 』 ミカ書 5:1~5

 2016年今年アドヴェントの始まりの日、11月27日に、私たちは31年ぶりのバザーを開きました。雨天であったにも関わらず、多くの方々が訪れて下さり、収益も満たされて良いバザーとなりました。

 しかし何より嬉しかったのは、教会のみんなで楽しくバザーを過ごせたことです。当初は、クリスマス関係のものだけをちょこっと売るミニ・バザーをイメージしていましたが、特にバザー委員会などを立ち上げた訳でもなかったのに、共育部門の婦人方を中心にして、思いがけずパワーが広がって行きました。

 私自身は、31年ぶりではなく、3年ぶりのバザーでした。それこそ牧師になって以来、毎年バザーをやって来て、東神戸に赴任したらなかった。ですから、半分ラッキー、半分残念の気持ちでした。ラッキーなどと言うと、不謹慎かもしれません。でも、バザーって、なかなか大変なんですね。注ぐ労力が半端ではありません。

 中でも、なるべくタッチしたくないのが、献品への値段付けです。これは大体、どこの教会でも婦人方が担当しておられるようですが、あらゆる商品に通じている人はいないのです。その品物にどれだけの価値があるのか、皆目見当もつかないものも、ままあります。もちろん中には非常に詳しい人もいます。よく知らない人は、しばしば安めの値段をつけますし、知っている人は高めの値段を設定することになります。

 この時、値段付けの担当が大勢いると、しっちゃかめっちゃかになる訳です。色んな意見が出て、決まらないのです。ですから値付け担当は数人でやるというのが、おおむねの鉄則になってゆくのです。

 相当の分野で情報を持っている人もたまにいますが、それでもすべてではありません。だからこそ、「開運、何でも鑑定団」という番組では、それぞれの分野のスペシャリストを揃えてお宝発見を担当するのです。

 さあ、この品物にどれくらいの金銭的・経済的価値があるか、については何でも鑑定団で査定ができることでしょう。それには基本的には「古いこと」が求められるでしょうし、数が少ないという希少価値も求められるでしょう。作者の知名度も大事ですし、傷ができるだけついていないことも必須条件だと思います。これらのことは素人でも分かります。

 そうだとすれば、さてイエスの価値は幾らになるでしょうか。どれくらいのものでしょうか。現代にあっては古いことは古いし、希少価値も知名度もある。ただ一点、傷はつきまくりです。十字架刑で亡くなった訳ですから、ボロボロと言って良いのかもしれません。

 ただ忘れてならないのは、誰にとって価値があるのか、ということです。イエスを知らない人にとっては、或いはキリスト教を敵視している人にとっては、残念ながらイエスに何の価値も見出さないことでしょう。だからこそ、私たちは聖書を通して、イエスはこんな人だったと語り伝えるのです。

 今日、旧約聖書からミカ書がテキストに与えられました。ミカは紀元前7世紀から8世紀にかけて、南ユダ王国で働いた預言者です。その5章1節に、「エフラタのベツレヘムよ。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る」という預言がなされています。よく知られている箇所です。

 エフラタ地方のベツレヘム(イエスの生まれた場所)は、イスラエルの中で確かに小さく、名もなき辺鄙な田舎町です。そこは多くの人にとって普段は顧みられない場所ですが、それだからこそ、そのような地から神のため、人々のための救い主が生まれ出るということが語られたのです。

 小さいところから用いられる人が生まれる。そんなことは通常あり得ないと思われていました。かつてギデオンという勇士でさえ、「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中で最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」と神に訴えました。

 イスラエルの初代の王となったサウルも祭司サムエルに向かってこう言いました。「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」

 神に用いられた人々でさえ、自分が小さな部族の生まれであることを原因にして、選ばれた理由に首をかしげたのです。「小さい」ということは、用いられるに相応しくないイメージを誰もかれもが持っていました。多分今もそうかもしれません。

 けれども、ミカ書を始め、旧約聖書のあちこちで、その真逆の選びを神がなさったことが記されているのです。すなわち神の民と呼ばれるイスラエルは、そもそも最も小さかったからこそ神の目に留まったのであり、あのダビデ王の選出の折でさえも、見かけではなく「主は心によって見る」と、人間の思う表面的条件がきっぱり否定されたのでした。

 それでも悲しいかな、私たちはどうしてもより大きいもの、立派なものを欲しますし、願いますし、そういうきらびやかな場からの選びを期待してしまうのです。イエスの生まれたベツレヘムという村は、ガリラヤのナザレという地方に属しますが、後にイエスの弟子になったナタナエルという人が「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言い放ったことがヨハネ福音書には記録されています。そもそもガリラヤそのものが、当時のイスラエルの人々にとって侮蔑の場所でした。辺鄙な田舎からは良いものどころか、何も生まれ出はしない、という偏見の思いが満ちていました。今以上に生活格差がひどく、都会エルサレムのようなところばかりが注目を浴びていたのです。

 しかし二千数百年前、ミカに与えられた預言は、そんなベツレヘムから救い主が生まれ、その力は地の果てに及ぶというものであり、4節の「彼こそ、まさしく平和である」という力強い宣言でした。それは人々が通常思い描く救い主像とは全く正反対であり、彼の生きる姿勢は「人の力に望みをおかず頼りとしない」というものでもありました。

 緩和ケアに自分の目指す医療を懸命に注いでいる小澤竹敏さんという医師がいます。ある高校で講演を行いました。「患者さんの話を丁寧に聴き、「希望と現実の開きを苦しみとしてキャッチし、患者さんの支えとなるものを傍らでともに育んで行くのが緩和ケアだ。だが、ついに最期まで支えを見つけられない時は、足がすくんで、動けなくなる。」そんな話をしました。

 講演の後、生徒たちが書いた感想文の中に、「誰かの支えになろうとしているこの人が、一番支えを必要としていると思いました。」という一人の女子高生の言葉があって、読んで涙があふれたそうです。

 この女子高生が発見したものこそが、価値だと思うのです。イエスもきっとそうでした。人を支えようと生涯を生き抜いたイエスこそが神の力、支えを一番必要とした人だったのかもしれません。救い主は何の力も誰の支えも要らないほど、強くて立派で大きな人だったと想像するのは、人間の勝手な期待値に過ぎません。

 今日クリスマス礼拝に当たって、私たちは、改めて救い主イエスの価値を思い起こしたいと思います。言うまでもなく、それは金銭的・経済的価値ではありません。そうではなく、こんなところから何の良いものが出るか、と侮蔑されたナザレのベツレヘムから。しかも馬小屋で生まれたイエスは、預言以上に本当に小さなところに誕生した人でした。そしてそれだからこそ、神の顧みを豊かに受けたのです。そうでなければ、あのような活動をなすことはできませんでした。

 イエスはかつて語りました。「誰も二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」いと小さきところに生まれた救い主は、生涯、ただ一人の主人に仕えて生きました。富とは権力とも言い換えることができます。或いはこの世的価値、人間的欲望とも表現できます。そこを徹底的に離れて、神が指示された友に仕えたのです。

 名もなく、小さく、人間的・この世的な力をより頼まず、ただただ友と生きた救い主イエス。その価値がなくなることはありません。イエスはこうも言いました。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。」毎年訪れるクリスマスですが、毎年この繋がりを思い起こして私たちは新しくされます。繰り返し新しくされます。私たちがつながる限り、イエスの鮮度が落ちることはないのです。イエスはこうも言いました。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

 来たる2017年も、これからも、イエスによっていつも新しくされながら共に歩んで行きたいと思います。



天の神さま、み子の誕生、ありがとうございます。私たちも小さく貧しい者です。どうか主とつながり続け、友とともに生き、豊かに実を結ぶ者とならせて下さい。


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