東神戸教会
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20170122 堀 剛(ほり たけし)牧師  『 神にゆだねる生き方 』 ルカによる福音書 5:1~11

*[01*年月日]20170122 東神戸教会 交換講壇
*[02*聖書]ルカによる福音書5:1-11,p.109
*[03*題]「神にゆだねる生き方」

 イエスがシモン・ペテロらに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが、マルコ1:17、マタイ4:19に記されている。その時、彼らはすぐにイエスに従ったとあるが、どのようなイエスとのやりとりがあったのか、マルコ、マタイではわからない。
 しかし、今日のルカ5:1-11では詳しく述べられている。そもそもペテロらは漁師として一日中働いたが、その日は何も捕れず、網を洗って仕事じまいをするところであった。
 そんなところへ、群衆がイエスから「神の言葉」を聞こうとして押し寄せたので、イエスはシモンの持ち舟を借りて、岸から離れた舟の上から群衆に教えられた(ルカ5:3)。
 その後、イエスはシモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた(ルカ5:4)。シモンは既に夜通し何度も網を投げていた。だが、魚がいなかった。収穫のない一夜をやっと終えたところだった。
 それでもイエスは「もう一度、網を降ろす」ように言われた。シモンたちはそんなことをしても無駄だ。一晩も頑張ったのにと思ったかもしれない。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」と答えた。そんなことをする時間があれば、さっさと家に帰って眠りたい、一晩中頑張ったのだからと思ったかもしれない。どんなふうに思ったかは正確には分からない。だが、それほど言われるならばということで、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた(ルカ 5:5 )。すると、「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった(ルカ5:6)」。
 信仰とは、このように自分の考えはともかくとして、いったん自分を離れて見るということだと思う。信仰というのは、そのようなものだと思う。そして、信仰とは、自分の中心に神を受け入れることである。主の言われることに自分を委ねることだと思う。彼らは自分の考えは横へ置いて、ともかく網を投げた。するとおびただしいほどの魚が捕れた。
ところで、NHK BS1で1月2日に「シリーズ医療革命」という番組があった。アメリカでブームとなっているマインドフルネスという瞑想法が紹介された。マインドフルネスとは、「今、ここで」の体験に気づいて、それをありのままに受け入れる態度、方法であるという。米国では大手企業が社員にマインドフルネスの瞑想を推奨しているそうである。実はこの番組は何度も放映されている再放送である。
 J・カバットジンという人の『マインドフルネス・ストレス低減法』(北大路書房)という本では、マインドフルネスとは、意図的に、いま、ここでの自分に注意を払い、価値判断を下さないで自分を見つめることだという。
 様々な呼吸法がマインドフルネスで使われるが、「いま、私は息を吸っている。いま私は息を吐いている。」、あるいは「いま私はいま息を吸っているということを知っている」や「いま私は歩いているということを知っている」など、自分の動作をことごとく言葉にして心につぶやくという方法もある。
 また、全米心理学会(APA)学会がマインドフルネス特集号の学会誌を2015年に刊行し、その効果を薬物療法と同等、あるいはそれ以上のものとして認めているという。
 これがどうして今日の聖書に関係があるのかと思われる方もおられるだろう。それは、シモンがイエスの言葉に従って自分の思いに少し距離を取り、あるいは、自分の気持ちを横へ置いておいて網を投げたように、マインドフルネスでも「いま私は息を吸っている」から始まって、一つ一つの自分の動作を言葉化することによって、自分を離れ、自分に距離を取ることを目指すのである。そのような点がシモンらの態度と類似していると思われる。
 マインドフルネスの専門家は自分をいったん離れて見ることを「脱中心化」と呼んでいる。これは自分と自分の体験を同一化しないで、少し離れて、何かを体験している自分自身の心を見つめるというものである。
 マインドフルネスでは、注意をゆっくりと呼吸に向ける。そして、他のことが頭に浮かんでも、それを自然にあるがままに眺める。何が心に浮かんでも、それをあるがままに受け入れつつ、いま自分は何々について考えていると心につぶやき、再び注意を呼吸に戻していく。これらは自分の思いや自分自身の心を少し離れて見るというトレーニングのようなものである。
 心に浮かぶ気になることがらが、いまの自分の問題だとしても、問題そのものに目を向けるのではなく、それをどのように受け止めているかという自分の心のあり方に意識を向ける。私たちがどのような困難にぶつかったとしても、ますは困難自体よりも自分の心がその困難によってどういう状態にあるのかを見つめるのである。心の中に不安や怒りの嵐が吹くとしても、向きあうべきは不安や嵐を起こしている原因や出来事そのものではなく、それによって私たちの心がどのような状態にあるのかということに向きあうのである。
 例えばの話であるが、もし家に帰ってきた時、誰か見知らぬ人が家から飛び出してきた。そして、火が放たれていたとすれば、どうするだろうか。放火犯を捕まえに走り出すだろうか。それとも、まず火を消すことに専念するだろうか。いくら犯人を取り押さえても、その間に家が焼失したのでは話にならない。不安があれば、不安の犯人や原因と格闘するのではなく、不安になっている自分の心そのものを何とかする必要があるだろう。あるいは、怒っているとすれば、まずは怒りの相手と取っ組み合いをすることが問題の解決ではなく、自分自身の怒りとどう向き合うかが先だろう。それらがすんでから、外部の敵と本当の意味で向き合えば良いのである。きっと、この順序ならば、問題の解決にもっと早く到達できるだろう。
 自分の心を見つめること、それは高いところに昇って全体を見るようなものだと思う。自分がどのようになっているかを、外側から見るのである。目前の状況に対して、醒めた目で距離を置くことによって、何が起こっているかが展望できると思う。そして、精神的な距離を保つことによって、今ある感情に圧倒されることがなくなっていくと思う。
 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた(ルカ5:5)。シモンは自分を中心にすえた視点を超えて、イエスの視点を自分の中心に受け入れた。マインドフルネスでは自分に距離をとることが重視されるが、私たち信仰者は自分の感情に距離を取りながら、自分の中心に神さまを受け入れることが求められると思う。
 イエスは次のようにも言われた。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。(マルコ8:35-36)」。自分の命を救いたいからと言って、自分の中心にしがみつくのではなく、そこから、一歩離れて自分を見る。そして、自分の中心へ神さまに来ていただく、その時、自分の命ははじめて本当の意味で自分のものとなるということだろう。
マインドフルネス流の「いま私は息を吸っていると知る」、「いま私は息を吐いていると知る」という言葉化は、私たちの場合はすべてを神さまに告げるようにつぶやいても良いかと思う。たとえば、「神さま、いま私は息を吸っていると知っています」、「神さま、いま私は息を吐いていると知っています」というように、祈るようにすべてを神さまに告げるというのでも良いと思う。なぜなら、私たちの脱中心化は中心に神を受け入れることに他ならないと思えるからである。
 ガラテヤの信徒への手紙2:20で、パウロは次のように言う。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。パウロは自分の中心に生きているのは、キリストであると言う。私たちも日々そのようにキリストを受け入れていきたいと思う。







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