東神戸教会
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20170129 横山順一牧師  『 大声ダイヤモンド 』 マタイによる福音書 21:12~17

 アルノ・グリューンというスイスの心理学者・作家がいます。アメリカの大学で長く教え、スイスで診療所も開きました。もう94歳の方ですが、精力的に活動されています。「従順という心の病い―私達はすでに従順になっている―」という本を最近出版されました。
 彼によれば、従順という心の病いは、幼少期に育ての親から与えられたものが根源にあり、更にその背景には父権主義が存在すると言います。「従順は、人間を権威的な構造に結び付け、心の奥深くに根を張って、倫理観や共感を無効にする行動を引き起こす固定剤である。「従順な人間こそが、観念的になり、自分自身の行動に責任を感じなくなる。だからこそ歴史の中で、常に従順の名において残酷な犯罪が行われてきた」と書いています。
 大変、刺激的で鋭い指摘だと、自分自身のことを併せて考えさせられました。私も相当強い父権性を持つ父のもとに、いつも怯えて育ったと思い起こします。正直に意見を言うことが怖くて、基本的に良い子すなわち従順な子どもを演じておりました。それは明らかな偽りでした。今思います。十戒にある「父母を敬う」ということと親に対し無批判・無自覚に従順であることはイコールではない、と。
 さて、今朝与えられたテキストは、イエスがエルサレムの神殿の境内にいた商売人たちに対して過激な行動を取られたという箇所でした。12節によれば、そこで売り買いをしていた人々をみな追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された、とあります。「倒された」とは穏やかな表現でして、本来は、ひっくり返したというべきです。いずれにしても、私たちが持っているイエスの温厚なイメージと著しく違う、非常に珍しい箇所だと言えます。
 追い出された人々や台や腰掛をひっくり返された両替商や鳩売りの人々からすれば、突然男がやって来て、思いがけない暴力を振るわれた訳で、このイエスという人物は危険な人物、或いはやっかいな存在としか思えなかったことでしょう。
 そもそも、両替商とは、地方から神殿にやって来て献金をささげる時、定められたお金に替えるために必要なものでしたし、また牛など大きな犠牲の動物を持参できない参拝者のためにも、鳩を売る商売も不可欠だったのです。だからこそ許可されていました。
 つまり、境内で商売すると言っても、それらはいずれも公認されたもので、怒られる筋合いではなかったのです。にも関わらず、イエスはそれらをひっくり返した上で、「私の家は祈りの家と呼ばれるべきが、あなたたちはそれを強盗の巣としている」と旧約聖書の言葉を用いて語られたのです。一体、イエスは何ゆえこうした奇抜で、暴力的な行動を取ったのでしょうか?
 その理由がすぐ後に書かれています。商売人たちは驚き、困惑し、或いは怒りをもって立ちすくんでいたでしょうが、14節、境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがイエスのそばに寄って来た、というのです。ここにイエスの怒りの理由がありました。
 各地から参拝する人々で賑わっていた境内ですが、それは喜びにあふれてやって来た元気な健常者だけではなかった。また裕福な人たちだけでもありませんでした。そこには目の見えない人や足の不自由な人たちなど、身体や心に障がいを負った人たちが現にいたのです。貧しい彼らは、両替することも鳩を買うこともママならない人々であったに違いありません。
しかしむしろ彼らこそ、誰よりも癒されたい、救われたいと望み、身体の不自由を押し経済的困窮の中で神殿にやって来た人たちだったのです。イエスはそんな彼らが忘れ去られ、片隅に追いやられていた状況を怒りと悲しみで見つめられたのです。だからこそイエスは、近寄ってきたこれらの人々を癒されたのでした。
 ここに一部始終を見ていた者がおりました。子どもたちです。どんな子どもたちだったのでしょうか。やっぱり貧しくて、様々なこの世の事情を抱えていた子どもたちだったかもしれません。であればこそ、その子どもたちはこうした大人の世界の真相をよく見つめておりました。だから、イエスの言動を見て、「ダビデの子にホサナ!」と叫んだのです。ホサナとは「今、救って下さい!」という意味です。もっとも救いが必要な人々の存在が隅に押しやられ、忘れ去られ、或いは見て見ぬふりをされていたその大人たちの欺瞞の姿に、子どもたちがはっきりと思いを声に出し表しました。イエスの取った言動に、子どもたちが叫び声で応えたのです。これが今日のタイトル「大声ダイヤモンド」の意味です。
 一方、祭司長や律法学者は、子ども達の叫び声の理由が理解できませんでした。うっとうしく邪魔でしかなかった。それを聞いて「腹を立てた」とあります。一体、神殿とは何でしょうか。私たちのありようを懺悔し、神さまのみ名を讃え、励ましと癒しを与えられ、希望と喜びに満たされる場所であるはずです。
 けれどもお金をかけ、豪華で立派な神殿が、まさしく見栄えだけで中身が何も整えられていなかった、その有様にイエスの憤りが「ひっくり返す」行為となって浴びせられたのでした。そうして、彼らの抗議に応えて、イエスは「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」と言う言葉を読んだことがないのか、と反論なさいました。それは詩編8編にある、神のみ名への賛歌でありました。
 安部首相は、施政方針演説の中で、「国会内でプラカードを掲げるようなことからは何も生まれない」と語りました。デモを揶揄するような発言でもありました。沖縄・高江でのヘリパッド反対運動は、強引に工事が行われ、一見力の前にいかにも空しい結果だったように思われます。
けれど、大事なのは結果を恐れて口をつぐんでしまうことにあります。私は釜ヶ崎で「わしらはな、存在自体が小さいんや。黙ってたら無視される。だから大きい声を挙げなあかんのや」とおっちゃん達から教えられました。
 だから、しかし、と思うのです。デモに加わった人々の思いは命を守り未来への続ける思いで熱く一つにされていました。小さいけれど大声ダイヤモンドだったのです。思えばイエスはたった一人で行動を起こされました。決して境内の商売そのもの、商売人の人々自体を否定なさったのでも拒否されたのでもありません。まして彼ら自身を傷つけたのでもありません。そうではなく、そこにもっとも救いと癒しを必要としている人々がいるのに、忘れ去られている事に対する、言いようのない怒りと悲しみがイエスを突き動かしたのだと思うのです。
 湯浅誠さんは、「反貧困」という本の中で、現在の日本の現状に対して私たちが取るべき責任は、「市民生活が健全に保てるように政府・企業を監視し、法を守らせ、一人一人の命と暮らしを守る政治を行わせるという責任である」と断言しています。「私たちは結局ナメられて来たのだ。自らの責任を棚上げしたところでの自己責任論や情報公開なき財政危機論で黙らされる私たちは、どんな悪政にも黙って付き従う羊の群れではないと示さねばならない」、そう書いています。
 また、マサチューセッツ工科大学のジョン・ダワー教授が、「国を常に支持」することが愛国ではない」、と書きました。「国を愛するということが、人々の犠牲に思いをいたすのではなく、なぜ、いつでも国家の行為を支持する側につくことを求めるのか」と。
 イエスにとって、国を愛するとは、まさしく人々の犠牲に思いをいたし、人々を愛することでした。その側につくことでした。イエスはかつて語られたのです。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を棄てる。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである」と。
 私たちはイエスに導かれ、養われる羊です。どんな悪政にも黙って付き従う羊の群れでは決してありません。おかしいことはおかしいと大声を張るよう促されているのです。イエス自身が、羊飼いでありながら羊の側に身を置かれる方でした。トランプ大統領の、就任早々の相次ぐ暴走は一体何でしょうか。先週大阪朝鮮学園の人々が教育資金援助打ち切りに対して訴えていた大阪地裁の判決が出されました。敗訴でした。権力側に無批判に立って、命をまるで考慮しない不当判決でした。
 イエスが命をかけてなさった言動に、私たちは少なくとも声の限りに叫んで従いたいと思います。あの境内にいた子どもたちのように、「ダビデの子、ホサナ」と。


天の神さま、私たちの言動があなたからの愛で出発しますように。恐れず、選んで行けますように。その大声をダイヤモンドとして下さい。




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