東神戸教会
〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11
TEL & FAX (078)851-4334
 
Topページへ戻る
教会の紹介
礼拝のご案内
集会・活動
行事のご案内
メッセージ
牧師のページ
東神戸教会への行き方
HOME > メッセージ > メッセージ全文
メッセージ

20170205 『 違いが分かる人になりたし 』  ローマの信徒への手紙 1:8~17

 鷲田清一という哲学者がいます。現在、京都市立芸術大学学長です。その前は大阪大学総長をなさいました。彼が「大人のいない国」という本の中でこんな事を書かれていらっしゃいます。

 「今の日本には大人がいないんですよ。いるのは老人と子どもだけ。若い人はみんな、もう自分は若くないと思っているし、おじさん、おばさんたちはまだ自分がどこか子どもだと思っている。成熟していない大人と、もう先がないと思っている子どもだけの国になってしまいましたね。」

 この分析、いかがでしょうか。私は当たっているかもと思っています。何しろ、私自身がまだ自分はどこかで子どもだと思っているからです。先月58歳になりました。還暦目前なのに、ちょっと情けないです。この精神状況について色々な分析ができると思いますが、私は、それは子どもと大人の違いがあいまいになっているからではないかと思っています。クリスチャンとしてはどうでしょうか。私たち、成熟した信仰者になりたいと願っていますけれど、そもそも成熟するとはどういうことなんでしょう。ここでも求道者と長い信仰者の違いがあいまいになっているように思います。

 映画監督の井筒和幸さんが、「沈黙」という映画の評論の中で、「神にすがって生きるなど図々しい奴は大嫌い」と書いていました。ちょっとムカッとします。

 私たちは、キリスト教という信仰を与えられ、救われたはずでした。ところが、いざ信仰生活が始まって見ると、この世の色んな課題に捕らわれたり、振り回されたりで、「救われた」とはとても思えない体験を繰り返します。

 救い主を通して、私たちは神から愛されている存在だと知らされたはずでした。イエスの十字架によって罪を赦され、こんな小さな者でも、神から覚えられ、用いられる、その恵みや喜びをかみしめたはずだったのに、しばしば忘れてしまうのです。

 その時、私たちは、ア~自分は弱い存在だと嘆く訳ですが、逆説的には実は「強い」のかもしれません。自分の固くなさ、或いは自分のプライドを信仰とは別に握り締めている。その意味では「強い」のでしょう。本来、そういう固くなさやプライドが信仰生活の中で繰り返し砕かれるものです。それがありのまま救われるということだと思います。でも、砕かれることへの恐れがバリアーになってしまう。救われるということをもしかしたら勘違いしているからそうなるのかもしれません。これでは井筒さんに反論はできません。

 パウロは、その意味で固くなさやプライドを繰り返し砕かれた一人でした。そのパウロが今日のテキストでは「わたしは福音を恥としない」と語っています。福音を恥としない、とはどういうことかを学びたいと思います。

 今日、まず改めて思い出したいのは、この福音なのです。福音とは、何ですか?そう問われたら、それはグッドニュース、「良い知らせ」です。良い知らせとは救い主イエスの歩みについてですとクリスチャンなら誰でも思うでしょう。イエスがその生涯をどのような形で、どのような人々と歩まれたか。何を思い、何を語られ、何をなさったか。そこに福音の意味があります。しかし忘れてはならないことは、そこには十字架の死が含まれるということです。

 十字架の死は、敗北でした。キリスト教を知らない人、関心のない人には、その死は空しくて、無残で、まことに惨めなものでしかないものです。その十字架が自分の命や人生と関わっていると思わないならば、思えないならば、このイエスの十字架の出来事は決して美しいものではない、良き知らせなどとは到底言い難い代物になります。

 私たちが忘れるのは、そこだと思うのです。自分の固くなさやプライドがイエスの十字架から離れてしまって、十字架の出来事の惨めさがどこかに飛んでしまうのです。どこかで美しく立派に生きようとしてしまう。

 つまり私たちは信仰生活の中で、失敗することを恐れるようになっているのでは、と思うのです。既に救われて信仰者とされたのだから、失敗することはないと思い込みたい場合もあるでしょう。或いは、失敗することは赦されないことだと身を固くしてしまうこともあるでしょう。逆に、失敗をしてしまう自分を責め、失敗する自分を見たくないと拒否してしまう事もあるかもしれません。

 けれども、クリスチャンになって信仰生活を送ることは、「失敗しない」ことでは決してないのです。当たり前ですが、クリスチャンだろうがとてつもなく大きな過ちをしでかしたり、つまづいたりするのです。それを覆い隠すものが固くなさでありプライドなのではないでしょうか。

 部落解放劇に少し関わって来て教えられたことがあります。筋道を学ぶということです。仲間の一人がこう語りました。

「部落差別問題を考えるということは、それをする人もされる人も解放されることだと思うんです。とても残念なことですが、部落差別の事を学んだからと言って、では他の差別はしないということはあり得ません。実際、部落差別問題を何年も学んで来た人から女性への差別があったり、性差別があったりします。それが現実です。でも、一つの差別問題を学ぶという事は、解放への道筋を学ぶという事なんです。捕らわれて小さくなっていたところから、一人の人間として愛され、認められる、そういう存在である事を少しずつ整理する事を教えられ、そして縄目から解放されること。この筋道を学んだなら、別の差別の問題にも同じように対処できるようになる。これが大事なんだと思います。」

 ハッとしました。私たちもイエスを通して、人間存在の縄目から解き放たれる解放の道筋を教えていただいていたのではないか、ということです。信仰も固くなさから解放されることだった。解放への道筋を示されていたのにそれを忘れてはいなかったか。クリスチャンになったからと言って、知らないことはたくさんあるのです。そこで失敗をする事を恐れて、かえって自分で縄目に縛られてはいないか、いなかったか、その事を気づかされました。

 大人になるという事は、失敗しない事ではありませんでした。大人として失敗しないための諸方法は知識としては学んで来ました。十分知っているつもりです。鷲田清一さんが、最近ピーコさんの言葉を紹介されていました。「ほかの人間を所有したがる人がいるでしょ。所有なんかできる訳ないのよ。ものですら人間は本質的に所有できないんだから」。この言葉に対して、「所有とは、何かを自分のものとして意のままにできることだとすれば、もっとも弱い赤子やペットだって、自然の樹や水だって意のままにならない。ピーコさんの生き方がとても自由に見えるのは、そういう所有への欲望が薄いからだ。自分自身を含め、何者の主人にもなろうとしないからだ」と解説されてありました。嫉妬は所有したがる悪徳であるという言葉もあります。対処法を知っていても現実には失敗するのです。自分が主人になりたいからでしょう。ですが少なくとも信仰生活における主人はイエスでした。

 パウロの言う福音を恥としない、とは間違いを犯さず、身を固くしてわき目もふらずひたすら走り続けることではありません。私たちはイエスの十字架を通して、赦され、歩みを始めたのです。解放への道筋を知らされたのです。自分の力でたどり着いたのではありません。つまり神の力に預かった、すがったのです。

この、イエスの敗北の十字架からスタートした私たちは、失敗を恐れず、常にその赦しに立ち返りながら、カッコつけずに歩んで行きたい。それが違いが分かるということであり、この営みを通して成熟した信仰へとつなげられ、育てられて行くことでしょう。


天の神さま、失敗を恐れない心を与えて下さい。失敗した時に、しっかり見据えて、豊かに正され、また歩めるよう助けて下さい。





 日本基督教団 東神戸教会 〒658-0047 神戸市東灘区御影3丁目7-11  TEL & FAX (078)851-4334
Copyright (C) 2005 higashikobechurch. All Rights Reserved.