東神戸教会
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メッセージ

20170212 『 それがせんせい 』  テモテへの手紙一 4:6~16

 私たちの救い主イエスは、様々な側面を持つ人だったと思います。ある人にはまさに救い主だったでしょうし、ある人には先生だったでしょうし、またある人には友だった、そして恋人のように思っていた人や、頼れる兄貴のように思っていた人もいたでしょう。今日はその中の「師」、「先生」というイエスを想像したいと思います。
 先週、昨年の3月に行われた日本基督教団・宣教方策会議の報告書が送られて来ました。発題をなさった牧師の一人が、質疑応答の時間で自分に向けられた質問へ出した返答にちょっと衝撃を覚えました。その牧師の発言にちょっと否定的な疑問を投げかけた聴衆に対しての返答です。彼は質問した人を、「自分の話をちゃんと真摯に聞かない人」だと言ったうえで、「きちっと受け止めて頂いて発言をして頂きたい。そうでなければ余り意味がない。そうでないのに、議論をしていても嚙み合わない議論になりますから、それは余り意味のないものになります」と答えているのです。
 この下りを読んでいて、少し前に国会で安倍首相が発言したのと同じだと思いました。野党に対して、自分の発言を理解しない議論は、しても意味がないと答えました。それは相当に自己中心的で、議論というものを拒否した発言だったと思います。
 先の牧師は、いわゆる教団紛争でかなり疲れた記憶を今にひきずっている方でした。それは不幸なことだったし、仕方がないことでもあったでしょう。気の毒だったと思います。ただ、今を構成するものは、ただただ過去の経験のみではないと思うのです。過去の体験は、それが重ければ重いほど、確かに後々の人間形成というか、思想に影響を深く及ぼすものです。しかし、今を構成するものは、それでも過去だけではないのです。大事なのは、そこに未来を志向する思いが加わるかどうかです。それがないとどうしても過去にひきずられて、前向きにはなれないのです。過去の傷は時間が解決する場合もありますが、今を生きる人間関係から与えられるものも大きい気がしています。
さて今日与えられたテキストはパウロが弟子のテモテへ向けて書いた手紙でした。この手紙の一番最後、6章20節にこうあります。
 「テモテ、あなたにゆだねられているものを守り、俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい。その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます。」
 こんなふうに締め括っています。ここで語られた、あなたに委ねられているものとは、エフェソの教会の信徒たちのことです。この信徒たちを守りなさいとパウロは命じました。
 不当にも知識として呼ばれている反対論とは、当時このエフェソの教会に新たに出現したグノーシス主義を信じる教師たちの存在や発言を指しています。俗悪な無駄話とは、彼らが話した内容についてでしょう。このグノーシス主義とは、ちょっと難しいのですが、例えば「身体と魂」、「物質と霊」といったように、すべてこの世を二元的に分類し、二元的に理解して、地上の物質的なものから魂を解放することによって、より神に近づくことができるという教えであり、彼らはそう説いたのです。
 地上の物質的なものから魂を解放するとは、簡単に言えば、人間的な営みを遮断することでした。ですから、彼らは結婚を禁じたり、一定の食物を断つことを信徒に命じました。言わば禁欲的生活を重んじたのです。また律法主義者と同じように律法の遵守を強いました。
 こうした禁欲的生活そのもの、或いは律法を遵守しようとすること自体は、必ずしも悪いことではないでしょうし、間違ったこととも言えません。けれども、それをしなければ救われない、と断じること、他者にそれを強いることはパウロにとって到底許しがたい教えだったのです。
 律法を固く守ること、それはまさにパウロ自身がイエスと出会うまで大事にしていた生き方でした。しかし単にパウロが個人的に選んで自らそうしていたというより、そうすることがより信仰深いという事を見せかける道具でしたし、その行いによって人々をも、他者をも善悪や救いのあるなしの判断の材料にしていた訳でした。またそのように教えてもいたのでした。
 しかし、パウロはイエスに出会って、救いは人ではなく神のみがなす業であり、主イエスを信じる信仰を通して、その恵みに預かるのだと知らされたのでした。つまり、救われるかどうかは、人間の行為や知識によるのではなく、むろん行為によるのでもなく、すべては神からの一方的な働きによるという事を示されたのです。その素晴らしい恵みが、エフェソに今現れた教師たちの教えによって元の木阿弥に戻ってしまう危険に迫られました。
 8節に「身体の鍛錬も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです」と書いています。禁欲的生活や律法を守ること自体を否定したのではありません。鍛錬も悪くないのです。でもパウロ個人の考えや思想と違ったから、この手紙を書いたのでもありませんでした。そうではなく、信心は、とあるように、もっとも根幹であるイエスの福音に対して、180度違う事を教える人々が出現し、そのことのために信仰の土台を揺るがされるほどの重大な影響を及ぼされたからこそ、パウロはテモテに手紙を書き送ったのでした。
 ですから4章の2節を見ますと、パウロはこの教師たちを「偽りを語る者たちの偽善」と強い言葉で表現しているのです。彼らは言わば偽教師と言って良い存在でした。7節では、「俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい」、とも述べています。この偽教師たちが語ったのは、福音ではなく俗悪で愚にもつかない作り話だったとパウロは言うのです。とある人から聞いたという、そのある人が誰かを明らかにしえない程度のあやふやな情報を、まことしやかにまき散らす代議士の先生がいます。どう考えても戦闘なのに、武力衝突だと言い張る大臣の先生もいます。偽りを棄てよ、偽教師たちとは、今も全く通用することでしょう。
 若い頃学んだ言葉で、忘れられない言葉の一つが、「教育とは、子どもたちと一緒に未来を考えることだ」というものです。一人だけ、自分だけ偉そうに未来を見るのではなく、子どもたち、若い人たちと一緒にということです。もう一つ、教える者が絶対に守らないといけない鉄則が、間違った時、素直に謝罪すること、そして方向の修正を図ることだとも学びました。イエスは子どもたちが近づくことを拒否されなかったばかりか、天国のたとえを語って子どもたちを祝福されました。
 また多くの人々と出会う中で、教えられた時には素直にそれに向かう方向修正を行いました。そうして行き着いた未来が、十字架と復活の出来事となったのでした。それが先生でした。
今、私たちの身の回りには先生と呼ばれる人が実にたくさんいます。国会議員もそうです。弁護士もそうです。そして時々、到底先生とは呼べない人を知らされます。人間的にどうか、性格的にどうかということではありません。先生としてそれはどうかが問われる、ということです。一緒に未来を考えるのかどうか。間違った時、方向を修正できるかどうか。パウロはエフェソの教会に出現した偽教師から信徒たちの信仰を守るよう命じました。彼らが先生ではなかったからです。真の先生から示された福音を勝手に曲げてはならないのでした。
 私も時に「先生」と呼ばれる存在の端くれです。およそ足りない者と自覚しておりますが、それだけに私たちの師たるイエスの福音と180度違う事を語ることがないよう、まげることのないよう、自戒したいといつも思っています。そもそも、イエスの福音は、教師の持ち物、一個人の持ち物ではありません。信仰者だけのものでもありません。それはこれから福音に預かる未来の人々も含めて、神が私たち人間すべてに下さったものです。だからこそ真の先生であるイエスに聞き従いたいと思うのです。

天の神さま、あなたが下さった福音は私たちを解き放ちます。悔い改めてなお、人を縛るものは偽りだと学びました。それを見分ける確かな目を信仰を通しイエスを通し与え続けて下さい。



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