東神戸教会
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メッセージ

20170226 『 ア・ラ!ランド 』  マタイによる福音書 14:22~33

 宇宙から見たら、地球に国境線はない訳です。そんな当たり前のことが、未だに共通理解になりません。便宜上、国境線があることは致し方ないとしても、土地は誰のものでもない、地球に国境線はないという基本線を地球に住む者として認識の土台とするなら、極めて多くの課題を解決に導けるだろうと信じます。
 さて本日のテキスト、イエスが湖の上を歩いたという奇跡物語ですが、マルコ・ヨハネ2つの平行記事より、一番丁寧に描かれたマタイの記述でした。イエスが水の上を歩くという奇跡は、それそのものはある意味突拍子もない出来事で、それを吟味することには余り意味がありません。それよりも3つの記事すべてに共通するのが、この直前に起きた出来事で、そこにこそ今日の箇所の意味が隠されているのです。
 その直前の出来事とは、いわゆる「5000人の給食」の出来事です。ほとんど食べ物がなかったのに、群衆たちが満足するほどの給食をなすことができた、これぞイエスの奇跡の力であり、それ故に人々はイエスを礼賛し、ついには「王にしよう」と考えたのでした。それがヨハネ福音書には記されています。
 このマタイとマルコには、そのことが書かれていない代わりに、イエスが弟子たちを舟に乗せて先に出発させ、一人残って群衆たちを解散させた、そして一人山に登って祈ったと書かれているのです。
 群衆たちの熱狂ぶりは十分に想像できます。そしてその熱狂に弟子たちも相当影響された、或いは全く一緒になって自分たちの主を持ち上げ祭り上げようとしたのかもしれない。そうであるなら、だからこそ、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ」と22節にあるのだと思います。群衆たちはもちろんですが、その前に弟子たちのヒートアップを冷まそう、そう意図されたのでしょう。同時に自分自身も、山に登り一人になって心を鎮めようとなさったのでしょう。
 そうして夜半を越し夜明けごろ、弟子たちのもとへ姿を現されたという訳でした。
弟子たちからすれば、5000人の給食の奇跡で群衆と共に熱狂状態を味わった直後、思いがけず主人から「先に行っておけ」と強いられ、急かれて舟に乗ったのです。決して自分たちの意志によるのではありませんでした。ガリラヤ湖という名前は登場しませんが、平行記事には向こう岸のベトサイダ、またカファルナウムとありますので、ガリラヤ湖だったのは言うまでもありません。
 突風がよく巻き起こる場所でした。その晩もそうだったのです。逆風のため波に悩まされていた、と24節にあります。難儀したと訳している聖書もあります。主人を欠いた舟の中で、彼らはいきなりつい先ほどまでの陸地での熱狂を完全に忘れる状況に置かれていました。そもそも主人が自分たちだけを先に出したのです。逆風に逆らって懸命に漕ぐしかない、船を操るしかない、言わば自分たちの力に頼るしかない、その状態が一晩続きました。もはや、そこにイエスがいないことは問題にならなかったでしょう。なったとして、イエスへの怒りだったかもしれません。
 ですから、明け方、突然水上に現れた主人イエスを見た時、嬉しかったのではなく、ただ怖かったのです。「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげたとの26節の記述は実に生々しい記述です。滑稽なほどに、ここだけ妙に現実的な弟子たちの姿が露呈されました。
 この人こそ王!と叫ぶ群衆に気持ちをあおられ、ほとんど一緒になって自分たちの主をほめ讃えたはず、ほんの数時間前の弟子たちは、もうどこにもいませんでした。全くの勘違いでした。もともと彼らの足元は、すべて自分の力、人間の力によるものの上にあったのです。
 お調子者のペトロ一人だけが、今少し熱狂の浮かれ気分に残して言いました。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」それにイエスが「来なさい」と答えられたので、その時点ではすぐさま水の上に立って、イエスに近寄ろうとしたペトロでした。
 しかし30節で、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので」とあるように、たちまち現実の力に気持ちを奪われ、自分の力、人間の力の世界へ引き戻されてしまいました。もうちょっと耐えたら、一見、惜しかったなあと思います。
 繰り返しますが、この出来事が事実かどうか、事実として科学的にどうかという話ではないのです。ここに描かれるのは、神の国、神の世界に立つとは、どういうことなのかが描かれているのです。神の国に立ったら、水の上を歩けるようになる、ということではなく、人間の力だけを信じて立つところには、それだけの限界があるということです。
 弟子たちはガリラヤ湖の突風を前にして、ほとんどが既に人間の力で立つ世界に戻っていました。一人ペトロが抗いましたが、それも勘違いによるものであったのかどうか、容易く落ちてしまいました。もうちょっと頑張ったら良かった、もうちょっとでまるで火の海の中でさえ、歩いて渡れたかもしれない、そんな体験ができたかもしれない、返す返すもペトロは惜しい、そう思えますがそんな話ではないのです。
 そうではなく、一つには、自分の力・人間の力によらない、それよりも神の力によることを信じる時、その世界に立つ時、人間の力によるもの以上のことが起こりうる、その可能性があるということです。
 そしてもう一つは、だけどそれがなかなか自分ではできないという厳然たる事実です。ところがそのできない人間たちをここで二度に渡ってイエスが手助けするのです。それも「すぐに」、「ただちに」です。はじめは弟子たちが幽霊だとおびえ、恐怖に包まれた時、27節「イエスはすぐ彼らに話しかけられた」のでした。また沈みかけ「主よ、助けてください」と叫んだペトロに、31節「イエスはすぐに手を差し伸べて捕まえた」のでした。弱くて、貧しくて、私たちが怯える時、恐怖に身を包まれる時、不安で叫ぶ時、すぐに助けるイエスがおられる場、おられる世界に、実は私たちはもう既に一緒に置かれている、立たされている、ということなのです。
 自分の力によって立とうとすることを忘れろ、ということではなく、例えそうであるのが現実だとしても、本当は私たちは「すぐに手を差し伸べて下さる方」が隣にいる世界に、共に置かれているということ、これを知ることができたら、幸いだ、という話なのです。
 「そこに所属しているという意識から、そこを自分が所有しているという意識に変わったとき、共同性は排他性へと変質する」と作家の星野智幸さんが書いています。つながりを持てることが喜びだったのに、どこまでが仲間かという線引きが始まるのだ、と。
 これは非常に正確な指摘です。例えば、私たちは互いに日本基督教団に属する者と思っていますが、ひとたび日本基督教団は自分たちが所有しているのだという意識を持った途端に、それまで抱いていた共同性がどこかに飛んで、教憲教規を守っている者が仲間、それ以外は仲間ではないという世界へ変質してしまうのです。
 さあ、ペトロを筆頭に、弟子たちはほんの昨日の夕方、食べ物がなくて空腹の5000人の群衆を前に途方に暮れました。そのピンチをイエスが救いました。でも大事だったのは、イエスの奇跡の力ではなく、またその奇跡の力を信じることができなかったことでもなかったのです。その空腹の仲間たちとイエスが共におられた、イエスだって空腹で、でも同じ地平に、同じ世界に一緒におられた、そのことこそが大切だったのです。
 ガリラヤ湖上の舟の中、再び訪れたピンチにあって、ほんの少しイエスがいなくなっただけで、そして自ら来て下さったにも関わらず、弟子たちはまたしてもイエスが共におられる世界を忘れてしまいました。まさしく信仰の薄い世界です。
 そのくせ、私たちはいつも、自分を強くしたいと願い、揺るぎない世界にあこがれ、願い求めます。頑張れば、懸命に探せばどこかにそんな場所があると夢見ています。気を付けねばなりません。もしそれを手にしたなら、自分のもの、自分がそこを所有したくなるからです。
 そうではなく、心の目線を移してみれば、困窮の時も、苦難の時も、イエスはいつも私が立っているこの場所に共に立っておられ、神のみ手は、ここに伸ばされているのです。一番大切なものは、もっともみじかにありました。ララランドは、彼方にありません。気づいてみれば、アラ!ランド=大地は実に足元に置かれておりました。私たちはイエスの大地に属する者です。

神さま、私が持っていると勘違いしているものすべてをあなたにお返しします。こんな私と一緒に立っておられる一人子にこそ栄光がありますように。






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