東神戸教会
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メッセージ

201700312 『 おまえのかあちゃん、でべそ? 』  マタイによる福音書 12:22~32

 今日ははなはだ上品ではないタイトルとなってしまいました。何やねん?と思われた方もたくさんいたでしょう。「おまえのかあちゃん、でべそ」。物凄く品が悪いからかいの言葉です。皆さん、聞いたことはあると思います。でも使ったことはないでしょう?昔、テレビでは見て聞いたのです。学校の悪ガキどもが、誰かをいじめる時にそう言ってました。で、言われた方は泣きながら帰って行く訳です。
 でも、よくよく考えて見るとこのセリフ、突っ込みどころが満載です。かあちゃんじゃなくて、とうちゃんだったら、良いのか?でべそだったら悪いんか?そしてそもそも、お前は、あなたは見たんか?ということです。本当に見たのなら、それはそれで大問題にも発展するでしょう。でも基本的にこれは、見てないのに言ってる「偽り」なのです。
 トランプ大統領が誕生して以来、アメリカでは「オルタナティブ・ファクト」という言葉が流行りだしました。「もう一つの事実」という意味ですが、実際には事実ではないのです。例えば、大統領就任式に集まった観客数を、オバマ前大統領の時より多く、史上最高だった、それはオルタナティブ・ファクト、もう一つの事実だったと大統領顧問が言い張ったのです。
 もう一つは、逆に事実であるのに事実ではないと言い張る「フェイクニュース」という言葉も流行っています。都合の悪い事実、いわゆる不都合な真実は、すべて「フェイクニュース」、偽のニュースだとする支離滅裂です。これもトランプさんのお得意ですね。
 「おまえのかあちゃん、でべそ」以上の、作られた情報、昔ながらの言葉で言うと「デマ」がちまたに溢れています。アメリカだけではありません。日本も同じです。デマなのに、事実・真実として情報が流されるのです。しばしば映像を混ぜて流されるので、つい信じてしまうやっかいな偽りです。それで「ファクトチェック」が大事だとされるようになりつつあります。事実かどうかを丁寧に調べるのです。面倒ですが、欠かせないチェックだと思います。
 さて、Eさんという方の人生を紹介します。脱会して証言を行いました。彼は或るカルトの宗教にうっかり入ってしまたのです。そして本当に熱心に布教活動を行いました。食事の時間すら惜しむほどに専念し、のめり込んで行ったそうです。長老と呼ばれる地位にまでなりました。ところが、次第に疲れて来ました。何事も「~しなければならない」という義務感ばかりが先に立ち、或いはそのように指導され続け、心の底からの喜びの奉仕ではなくなって行ったのです。と同時に、やって来たことへの不信が生まれました。
 だいたい、こうしたカルト宗教に入ってしまう人は、概ね誠実で真面目な人が多いのです。だからこそ言われるままにすべてを捧げて活動を行います。そこでは疑いを持つことは罪であり、許されないことですから、それこそ事実でないことですら一点の曇りもなく信じ込んでしまうのです。そして行き詰まり、つぶれてしまう。
 結局Eさんは精神病を患い、生活がほとんど破綻してしまいました。医者にかかるお金さえままならず、電話代や電気代、水道代も払えなくなり、失業と転職を何十回と繰り返して行きました。ところがそんな状態になっても、カルトの教えから離れられないのです。何かおかしいぞと気づいても、一切を捧げて行ってきた自分を否定されることは、それこそ恐怖なので、引き返せない訳です。
 しかし幸いにも、救出活動を行っている教会の牧師と出会い、Eさんは引き戻され、誤りに気づきました。そこまで来るのに何年もかかったのですが。彼は17年余りも活動をしていましたから、それは大変な道のりだったろうと想像します。何度も死のうと思ったことでした。
 Eさんに限らず、私たちの多くは、固い信仰を持ちたいと誰でも願っています。ちょっとした事で、疑ったり、揺れたりするのではなく、例え何事があっても動じない、どっしりと、しっかりとした信仰者でありたい、そう願います。それを祈り求めることは、間違ってはいないでしょう。
 けれども同時に、信仰は神が下さるものであるということ、一方現実の信仰生活は、人間の手に委ねられている事を忘れてはならないのです。むしろ、疑いや揺れが信仰生活には大事である時もあるのです。人間の手によって行われる信仰生活に、完全などあり得ませんし、間違いをしでかす場合も決して少なくないのです。そういう余地を残さず、一点の曇りもなく信じなければならない、という時に、既にどこかで無理があり、ゆがみが生じている事を思います。その意味で私たちも信仰におけるファクトチェックが大事だと言えます。
 さてイエスがメシアとして民衆の間で、次第に受け入れられて来ました。それは律法主義者たちやファリサイ派の人々にとっては由々しき問題で、看過できない現実でした。なぜなら、イエスをそのように受け入れる事は、彼ら自身の宗教的権威が否定されることに直結したからです。そこで彼らは、イエスの言動は悪霊の頭であるベルゼブルの力によるものだ、と吹聴し、中傷したのでした。まさしく聖書時代におけるオルタナティブファクトでした。簡単に言えばデマです。
 律法学者やファリサイ派が重々しく言い募りますから、それは一見、神学的な主張のように聞こえますが、実は誠に幼稚な主張でした。「私がベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」というイエスの反論に、よく表されています。
 悪霊が悪霊を追い出すなど、仲間内のただの内紛ではありませんか?それでは悪霊が支配する事は成立し得ません。ちょっと考えたらすぐに分かることです。でも、律法学者やファリサイ派の人々は~しなければならない、~でなければならないと自分たちの立場のみを信じ切って、現実を客観的に見る事ができなくなっていました。真実を受け入れられなかったのです。
 それと極めて似た発言がファリサイ派や律法学者たちの言いがかりでした。しかし、本来余りにもつまらない、相手にするのもアホらしいその中傷に、敢えてイエスが反論をなさったのには、大事な訳がありました。イエスがなさった悪霊を追い出すという行為には、世間で悪霊と呼ばれるものへの疑いと問いかけがあったからです。また悪霊とされ、人生を奪われる人が後を絶たなかったからです。
 当時の社会では、精神的な病以外にも、例えば重い皮膚病であるとか、障がいを持っているとか、治療のしようのない状況に陥った者に対して、それは神さまの祝福から落ちこぼれたことであり、言わば悪霊に取り付かれた罪人なのだという偏見が満ちあふれていたのです。ですから、彼らは忌み嫌われる存在で、社会の片隅に追いやられてしまっておりました。
 病気を患うこと、何らかの障がいを負うことは、決してその人の罪でも、先祖の罪によるものでもありません。いわれのない差別です。それ故にイエスは「そうではない」とはっきり語られました。そしてそのような作られた悪霊を追い出すという治癒を行ったのでした。ですから、ただ病気を癒すということだけではありません。病気は罪によるものという差別的な偏見によって、人生や存在意義を否定された人々の心を清め、慰め、癒されたのです。そうではないと断固否定され、病気以上に差別意識によって傷ついていた人々の心を励まされたのでした。それは真実を語り続けるという固い意志の表れでもありました。
 最初に紹介したEさんは、イザヤ書の言葉を用いてカルトから脱出したことの証言をしておられます。そのくだりを紹介します。
 主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)
 私は自殺の名所である絶壁に立って、すべてを終わらせたいと思っていたことがある。人生には確かに、絶望の淵に立たされることがあるかもしれない。しかし、その絶望の淵に立って、下ではなく大空を見上げ、翼をいっぱいに広げて力強く舞い上がっている言動力となるものを必要とする時が必ず来る。
 神さまの目があまねく全地を行き巡っており、生きとし生ける者すべての願いを満たして下さる力であればこそ、イザヤをしてこのように力強く言わしめたのではないか。
 そして神は救いのみ手を存分に発揮される方。どうか見捨てられてしまったと感じている元証人たち、声にならない慟哭を、神は決して見捨てられるはずがないという確信をどこまでも持ち続けていただきたい。」
 カルトに限らず、オルタナティブファクト、デマを作り流布する人たちには、人々をどこかへ動かしたい目的と意図があります。私たち自身にも、真実がどこかにあるとの思い込みがあります。でも私たちが生かされているこの天にも地にも満ちているのは、神の愛であり、力です。それに気づき、それを実感することが信仰でしょう。聖書には、神は「わたしは始めであり、終わりである」と再三語られたことが記されています。かつてだけでなく、今もそうだし、これから後も等しくずっと、ということです。だからこそ、神さまは繰り返し「恐れるな、おののくな」と呼びかけられたのです。
 そこに神の暖かさ、優しさ、陽気さが込められています。それは~しなければならない、~でなければならないという悲愴な義務感とは別次元のものです。私たちは天国、つまりまだ見ぬ世界を信じる者です。ですからこそ、見ないものを信じるに相応しい力を吟味せねばなりません。現実世界には、つい下を向いて、悲痛な思いに誘われる出来事が確かに満ちてはおりますが、その私たちを上から、下から神さまは包んで下さる。あ~、もう終わりや、おしまいやではないのです。終りを常に新しい始まりとして下さる方、ここからも一度始めよう、そう促して下さる方、その方こそが神だ、それが真実だと信じています。私にできること、私たちに託されていることは、その真実を語り続けることです。


天の神さま、あなたは私たちの破れをご存知です。その破れを自分自身でつくろえとは言われません。神さまが覆って下さるのです。主の十字架が証ししました。それだから私たちはあなたを見上げみ前に立つ事ができます。感謝です。どうぞ、神さまに向けて心を解き放つ者として下さい。






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