東神戸教会
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メッセージ

201700319 『 仰げば尊し、わが主の恩 』  マタイによる福音書 16:13~28

 先週、頌栄幼稚園の卒園式に出席しました。いつも思わされることですが、幼稚園にしても保育園にしても、この頃の卒園式が一番感動します。入園した時は、あんなに小さくて泣いていた子が、こんなに大きくなって色んなことができるようになって、そして更に広い世界へと出て行く、文句なしに未来を感じることができます。卒業のことを英語でグラデュエーションと言いますが、動詞グラデュエートとは、階段を登るという意味です。一人でトイレに行けるようになった、ひらがなが書けるようになった、自転車に乗れるようになった、子どもたちは確かに一歩階段を登り、次へ向かう訳です。
 しかし、今年は富美子が養護学校に勤めて養護学校の卒業式の話を聞きましたので、バラ色に輝くばかりではない卒業式があることを知りました。例えば、寝たきりで、誰かの手伝いがなければ自分ではできない子どもがいるのです。目に見えて何かができるようにはならない子がいるのです。保護者にとっては、もちろん嬉しい、喜ばしい卒業式です。でも養護学校の高等部の場合には、そこを卒業したら、もう次はない生徒がいます。嬉しさの一方で、これからが心配という場合もあるのです。そういう卒業式があることを知って、階段を登るとは、何かができるようになることだけを指すのではないと思わされました。何かができるようにならなくても、何もできなくても、心が次の階段を踏む卒業式もあるのだと知りました。その意味では、学校の卒業式は決められた3年とか4年とか6年とかの時間が経てば自動的に迎える卒業式ですが、そうではない時間の、つまりもっと短い場合もあれば長い時間の場合もある、そんな卒業もあるのでしょう。
 永田カビという漫画家の言葉です。人が幸せな気分でいるのは、「その幸せなことだけしか考えてない状態」、つまりは「幸せに水を差す事実は認識してない状態」。だから「幸せ」な時とは、情報が取捨選択されて視野がすごく狭まった状態なのだ、と。なるほど、一理ありますし、よく分かります。
 さてレントも半分近くを過して来ました。改めて、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられたイエスの事を思います。誘惑とは思いがけない時、一人で孤独で、疲れているような時に襲われる事が多いのでしょう。イエスの受けた誘惑も、荒れ野で疲労し、一人でいる時に与えられたのでした。
 一方で今日私たちは与えられたテキストから、充実して、何もかもが十分に分っているような時・満たされているような時にも、同様に誘惑がある事を示されました。後の一段落に「イエス、死と復活を予告する」との小見出しがあるように、イエスが宣教・伝道の旅を続けられる中で、つい近いうちに起こる出来事、そもそもイエスの旅の終了、イエスの生涯の最後に予定されている最終目的について弟子たちに言及した箇所からそれが分かります。
 21節に「このときからイエスは」とあるように、その時からイエスは自分の未来についての予告を語り始めたのです。で、その「この時」とはいつのことなのか、それはエルサレムから非常に離れたところまで旅をしてきて、最大限遠い地方であったフィリポ・カイサリア地方まで来た時のことでありました。それが最初の一段落の出来事でした。
 そのフィリポ・カイサリア地方がどういうところだったか、もう一度思い起こして置きましょう。それは当時イスラエルを支配していたローマの支配者たちの別荘地のようなところでした。カイサリヤとはそもそも皇帝の町という意味ですから。別荘地というにふさわしい大変風光明媚な場所であったということです。ヘルモン山の南麓に広がるとても美しいところだそうです。はるばる厳しい旅を続けて、エルサレムからおよそ200キロはあるでしょうか、そんなところまでイエス一行はたどり着いた訳です。そこに旅の疲れを癒すような美しいロケーションの中、きれいで豪華な建物が立ち並んでいたのです。ただそれは、あくまでもローマの支配者たちの別荘であり、その関係者の建物であったのです。
 そういう当時のこの世の権力の象徴のような場所に弟子たちと共に立ちながら、イエスは弟子たちに問いました。最初の一段落に記されています。15節、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と。これにペトロが答えたのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この返答に対してイエスは「シモン・バルナヨ、あなたは幸いだ」と答えました。よく言えば情熱家でのりのいい性格のペトロ。悪く言うと、おっちょこちょいで単純なペトロでした。イエスの祝福に満ちた、お誉めの言葉をきっと有頂天になって聞いたことでしょう。
 ペトロにせよ、他の弟子たちにせよ、決して優秀だから選ばれたのではありませんでした。何か特別な才能にあふれていたから招かれたのでもありませんでした。すべてはイエスの選び、神様の計画によって弟子とされたペトロたち12弟子でした。
 足りないところも多々あり、失敗もつまづきも数え切れない弟子たちでした。しかしエルサレムから見れば遠隔の地とは言え、当時の世界の象徴的場所でイエスの事を「生けるメシアであり、神の子だ」と堂々とその筆頭弟子たるペトロが答えたのです。どんなに足りない弟子たちであっても、この答えを聞いてイエスは「よし、ここからだ」という思いに満たされたのでしょうか。
そうではなかったと思うんです。「このときから」とあるのは、まさしくイエスが時を示されて、これから自分の近未来に待っている十字架に向って、その遠隔の地であるフィリポ・カイサリアからきびすを返しいざ、エルサレムへ取って戻る決意が与えられた決意の時です。しかし、それは実はペトロの答えに満足されたからではなく、むしろ逆だったのです。むしろ彼の弱さを見つめたからなのです。だからこそ祈りを込めて「この岩の上に私の教会を建てる」と語られたのです。岩とはイエスがペトロに与えられたニックネームでした。
 それは少なくともペトロにとって、気持ちが最大限に高揚される場面でした。イエスに誉めていただいた。主人の満足する答えをなすことができた。これまでのつらい旅が報われた思いでいっぱいになりました。さあ、これからだ、ようし、これからこそだ、そう全身に力が入ったその時です。幸せに包まれ、視野がすごく狭まっていたのです。その時イエスから彼らが聞かされたのはこれから主人が苦しみを受けて殺されるなどという、まったく耳を疑う予告であったのです。信じたくもなければ、聞きたくもない言葉だったでしょう。十分イエスのことが分ったと満足した時に、そこに入り込んだのは、悪魔の誘惑でした。美しい風景をバックに立ち並ぶ、この世の権力の象徴たる豪華な建物郡を見つめながら、一瞬ペトロの脳裏をよぎったのは、ローマに代わって世に君臨するイエス及び自分たちの姿であったのでしょう。まさに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せた上で「もしひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」とイエスにささやいた悪魔の誘惑の出来事そのものでした。それでペトロはイエスをわきへ連れ出しいさめたと言うのです。
 イエスはあの荒れ野において悪魔に宣言なさったのと同様に、目のくらんだペトロに対してはっきりと語られました。23節「サタン、引き下がれ」「あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず、人間の事を思っている」と。
 つくづく弱い私たちです。肉体も精神も弱い。にも拘らず、すぐに調子に乗って増長します。勘違いします。つい先ほど、弟子たちを代表して、いかにも立派な受け答えをした人間が、いきなり180度変るつまづきを犯すのです。
 「サタン、引き下がれ」とは、それにしてもきつい厳しい叱りの言葉です。岩波書店版聖書では「サタンよ、私の後ろに失せろ。お前は私のつまづきだ」と訳されています。ガリラヤのイェシューに至っては「うぬはこの俺にとっての足手まどいだ!神さまの思いにぁ一向気を向けねぁで、いづもオドオド世間の事ばかり気にしてけつかる!」と続けられています。身震いするような、一発で目が覚めるようなお叱りです。でも言われなければ分らない。否、言われても分らない時も往々にしてある私たちです。それは十分イエスの知っているところです。なお許して下さいます。選ばれ、用いられたのはイエスご自身ですから。でもだからこそ、今必要と思われる言葉をためらわず、かけられたのです。よしよし・まあしかたがないなどと目をつむる時ではありませんでした。岩の上に私の教会を建てる、とイエスは言われました。岩は、堅固なもの、変らないものの象徴です。けれども、現実のペトロというもろくて、変り易いものの上に自分が犠牲となって教会を建てるとイエスは決心されたのです。
 一方的に弟子を叱るイエスではありませんでした。もう良い。これ以上の旅は要らない。十字架を目指してエルサレムへ戻るのだ。人の弱さを十分に見極めたイエスの決意の時、いわば卒業式でした。じぶんへの戒めであり、決断の時でした。それは階段を登る卒業式ではなく、一歩一歩階段を下ってゆくがごとくの、下へ降りる卒業式でした。
 私たちを愛し、どんなに足りなくても用いて下さる。そのために一緒に旅をし、生活をし、共に生きて下さり、ついには降りる決意をされた方が救い主です。その主がいて下さるから、何かが出来なくても何も出来なくても次の歩みへと押し出されて行くのです。イエスが人を愛して、共に生きて下さった。その先に十字架の出来事が待ち受けているのを覚悟で、一緒に歩んで下さったのです。だからこそ、ここでペトロに対し譲れない一線がありました。この深い愛情を後にペトロは嫌というほど知ることになりました。
 人間叱られなくなったらおしまいだ、と言います。まして愛情を持って叱って下さる方の存在は、真に貴重です。そしてそのような方のお叱りを受け入れられなくなったら、もっとおしまいと思います。私たちの信仰生活にも、この信仰生活が長くなり深くなるごとに、何でも知り、分っているかのような落とし穴、つまづきが待っているのです。その私たちをイエスが諌め、叱って下さる幸いに感謝しましょう。救い主イエスのお叱りに、然り、アーメンと唱える者でありたいと思います。
ペトロ同様、本当に思い知らなければならないのは、私たちの弱さについてです。私たちの努力やがんばりや苦労が何かになる、ましてや教会となるのではありません。だからパウロは言いました。「成長させて下さるのは神だ」と。私たちの弱さの上にイエスが教会を建てて下さるのです。そしてその弱さにも拘らず、私たちを辛抱づく良く愛し導いて下さる救い主への感謝を忘れたくない。この土台の上に建てられるものを共に見たいのです。

天の神様、良き導き・正しい恵みに感謝します。これからもそのように導いて下さい。それを受け入れる私たちとして下さい。


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